衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2018年03月01日    木曜日     第2 回の開示 合計124回の開示

意識の我見断と明心見性における現量了別

我見を断つ際に、意識は眼前において五蘊の生滅する虚妄性・苦性・空性を観察し、心中に明らかに五蘊が我ならず、我と異ならず、五蘊と第八識が相互に包含しないことを知ります。この知は現量の知であり、五蘊が我ならざるは真実の理であるため、真理と呼ばれます。意識がこの真理を認知することは真実かつ現実的であり、従前の一切の誤った知見を覆します。よって意識がこの時に見るものは如実の見であり、完全なる現量の了別であり、従前の非量認識を正す智慧の現量認知です。故に真実の我見断ちとは現量の境界なのです。

明心の時、意識は真実の自己である第八識を証得し、眼前に第八識の体性と働きを観察します。第八識の清浄性・真如性・不生不滅性・不動揺性などを観察する意識のこのような了別は現量の了別であり、現量境界です。六祖が悟りを開いた際に述べた五つの「何期自性」こそ、現量観察による実証の現量境界です。第八識と五蘊・七識の和合する働きは現在進行中の現実の活動であり、この時の意識の観察了別は現量了別、すなわち意識が第八識を証得する現量の智慧境界であって、比量・非量の混入は一切ありません。非量の了別であるならば、真実の明心開悟とは言えず、それは想像上の悟りであって、親証なき故に真実の開悟ではないのです。

仏性を眼見する時は、身心世界全体の如幻観を証得し、眼前に仏性の美妙な働きを実感し、自らの身心世界が幻の如く化現することを現前に体感します。従ってこの時の意識は現量了別であり、現量の智慧境界であって、比量・非量の境界ではありません。そうでなければそれは想像上の見性に過ぎず、親証なき故に真実の見性とは言えません。明心見性後の修行過程において、各種の観行による証得は全て意識の現量了別であり、現量境界です。修行が深まるほど意識の現量境界は増し、比量・非量境界は減じます。仏地に至るまで修行を続ければ、仏地の意識は全て現量境界となり、比量境界はなく、ましてや非量境界は存在しません。

——生如法師の開示
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