衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

生如法师のウェブサイトロゴ

日常開示

2019年01月21日    月曜日     第3 回の開示 合計1195回の開示

仏法の修証において人が悟りを開いたかどうかをどのように判断すべきか

世間法において審判を行うには、対象となる内容に通暁しなければなりません。つまり専門的知識を備えている必要があります。例えば大学教授の教育水準を評価する場合、自らの学識がその教授を上回るか、少なくとも同等でなければなりません。大学生の論文水準を評するには、大学教員であることが求められます。仏法の修証において、ある者が悟りを得たか、見性したかを判断するには、まず自らが明心見性の境地に達しているべきです。その道を歩み終え、その道に精通してこそ、他者の歩む道が正しいかどうかを知り、他者がどの位置にいるかを理解できるのです。仏法の判断において最低限必要なのは択法眼を具えることであり、最善は主要な仏法に対し余り疑いを抱かず、さらに最上はその法を証得してこそ、比較的正確な判断が可能になります。この境地に至る者は稀です。他者が証果を得たかを判断するには、まず自らが証果を得ねばなりません。初果を証得してこそ疑いを断じ、自らの証果の有無を疑わず、師の証果を疑わず、法が衆生をして我見と我執を断じ得るかを疑わなくなるのです。さもなければ他者を判断できず、自らに目盛りなき者は他物を測れません。

——生如法師の開示
前の記事前の記事

実証仏法には修定が必要です

次の記事 次の記事

貪欲を捨てずんば、脱胎換骨せず。

ページのトップへ戻る