衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常開示

2018年02月25日    日曜日     第1 回の開示 合計103回の開示

なぜ一心は二用できないのか

問:俗に「一心二用ならず」と言いますが、これは意識を指し、意識は同時に二つのことを考えたり行ったりできないという意味です。しかし意根は一切の法に遍く縁り、あるいは一つの法に未だ攀縁し終わらないうちに、もう一つの法を攀縁します。その間隔が刹那的で極めて短いため、同時に複数の法を攀縁していると解釈することもできます。この状況こそ意識と意根を区別する好機ではないでしょうか。

答:世俗法において言う「一心二用ならず」とは、もし一心が二つ以上の用途に用いられれば、その運用は不十分となり、精力が分散し、心が粗雑になって、了別が緻密でなく不明瞭となり、思考が不鮮明で、智慧が生じないという意味です。実際には意識(六識)は二つ乃至三つの用途に用いることが可能です。凡夫の定力は非常に弱く、慧力も劣っているため、精力が少し分散するだけで六塵の境界を了別しきれず、問題を考察する際に緻密さを欠き、大雑把で杜撰、曖昧模糊として本質を捉えられず、智慧が低劣であることが表れます。

意識心が訓練されていない場合、ある事柄をよく思量考察しようとすれば、専一に思惟しなければなりません。そうでなければ明確に考察できません。意識が訓練され定力が優れている時は、一心多用が可能で、同時に複数の法に縁っても全てを良く成し遂げられます。例えば世俗法で言う「六方を視て八方を聞く」がこれに当たり、細部まで思惟することはできませんが、全体的に適切に調整できます。例えば重大事に直面した際、人は往々にして極めて冷静に振る舞い、この時全ての精力と能力が発揮され、様々な事柄を周到に考慮し整え、大脳が高度に回転し驚異的な速度で働きます。世俗人が仕事をする際も時に同様で、各人の精力と能力は大いに異なり、定と慧にも差があります。

意根は同時に複数の法を攀縁でき、かつ刹那的に連続して絶え間なく複数の法を攀縁します。もし意根が六塵上の法を攀縁しようとするならば、意識は必然的にそれに従って了別します。従って意識もまた複数の法を攀縁し得るのです。意識と意根を区別するには、主体性や決定権において、習気・慣性・作用の面で区別するのが容易です。突発的な事態が生じた際には、意識と意根の作用を容易に識別でき、浅層の心理作用と深層の心理作用の間で意識と意根を比較的容易に区別することが可能です。

——生如法師の開示
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