ある人が夢を見ました。夢の中で自分の車が潰されて完全に消えてしまい、夢の中で心が張り裂けるほど痛みました。目が覚めた後も、まだ心の痛みが続いていました。これはどの心の痛みでしょうか。どの心の覚受が、このように執着し固着しているのでしょうか。夢の中で心が痛んで目が覚め、恐怖で目が覚め、喜びで目が覚めるのは、なぜこのようなことが起こるのでしょうか。全てどの識の受なのでしょうか。夢の中の意識と、夢の外の意識は同じものなのでしょうか。
意根は連続する識であり、前世今生も夢の中も外も同じように存在しています。眠りに就くことと目覚めることを主導するのは意根です。夢の中で心が痛むのも現実で心が痛むのも、必ず意根の覚受によって心が痛むのです。さらに意根は身心の変化を引き起こすことができ、心を痛ませるものこそが意根です。意識が痛む時は非常に微かで、微風が海面を撫でるように波紋も起こさず、身心の反応を引き起こしません。
夢の中で意根は独頭意識の了別を通じて、夢境を現実と見做し、真実の境界であると認識します。そのため夢境に非常に執着し、ついに身心を動揺させ、心の痛みという現象を引き起こすのです。目覚めた後も、意根はまだ夢中に浸っているかのように深く感応し、心がまだ痛むと感じさせます。夢の中の独頭意識は既に変換されましたが、意根はまだ夢境に執着しており、独頭意識は夢中の境界を回想し、これまた感応を生じます。この中で意根の覚受は根深く固着しており、変わり難いものです。意識の覚受は容易に変化し、境遇に遇えばすぐに境界の影響を受けます。
ここから見て取れるのは、意根の受は完全に捨受ではなく、そうでなければこれほど大きな身心の動揺を引き起こすことはなく、痛みで目覚めたり喜びで目覚めたり泣きながら目覚めたりすることはないでしょう。目覚めた後も泣き続け、喜び続け、痛み続けることはあり得ません。我見を断ち、覚受を断ち、覚知を断つこと、つまり意根の我見・覚受・覚知を断除することが最も難しいのです。意識の全ての知見・覚受・覚知は容易なものばかりです。
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