甘露を毒杯に注げば、たちまち毒薬となる。これは器が清浄でないがゆえである。仏法の甘露が衆生の心に入っても、衆生は邪な解釈を生じる。これは智慧が清浄でないがゆえである。邪見の種子が衆生の八識の田に宿り、縁に遇うと即ち邪解を生じる。甘露の法相が衆生の識心によって歪められ、変現された内相分はもはや甘露ではない。識心が歪められた内相分に触れると、邪見を生じる。邪見の種子が再び八識の田に植え付けられ、将来咲く花もやはり邪見の花であり、結ぶ実も邪見の果である。なんと嘆かわしいことか!意根の染汚性を除去することは、仏法を学ぶ者の急務である。これには意識心が常に正しい法理を正しく思惟し、絶えず意根を薫染させ、ある日意根の邪見が転換した後、修行は正しい道を歩み始めることができるのである。
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