衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

生如法师のウェブサイトロゴ

日常開示

2018年02月21日    水曜日     第2 回の開示 合計85回の開示

識心の分別性と了知性

第七識には分別性があります。第七識は本来、分別するために存在するものであり、第七識の心が存在する限り、必ず分別性があります。もし分別しなければ、三界に現れることはできません。前七識が「識」と呼ばれる理由は、識心の自性が本来より分別あるいは識別の作用を起こし、常に分別性を有しているからです。そうでなければ「識」とは呼ばれず、木石と変わりありません。第八識もまた「識」と呼ばれる以上、当然第八識自体にも分別性があります。八つの識すべてに分別性があるからこそ、八識と呼ばれるのです。成仏した後も、八つの識には依然として分別性と了別性があり、一切の法に対して了別と分別を行います。

分別とは何でしょうか。一切の法を知ることは、すなわち分別です。分別がなければ了知性は存在せず、分別なき状態は全くの無知であり、木石と異なりません。したがって成仏しても、依然として一切の法を知り、しかも私たち衆生よりも円満で円明なる知を具え、知らざる法はありません。仏のこの了知性と分別性は徹底的に円満し、究竟の円満に至り、一切の法を分別する時には明明白白、徹徹底底とし、仏の了知性は一切の時空に遍満し、いささかの障礙も隔たりもなく、微塵の無明も無知も存在しません。衆生の第七識の了知性と分別性には限界があり、制約があります。無明が深重であるが故に、了知は円満ならず円明ではなく、極めて僅かな部分しか了知できません。第七識に無明の煩悩と染汚が残存する限り、その分別性には甚大な遮障と阻礙があるのです。

成仏の時、八つの識には依然として分別性がありますが、分別する際には甚大な智慧を具え、色声香味触等の一切の法を完全徹底的に了徹し、三界世間の一切の法を徹徹と分別します。もし八つの識が全て分別しないとすれば、不分別とはどのような状態でしょうか。不分別とは石のようなものであり、衆生は石ではなく、成仏後は更に石ではありません。石でない以上、識心は当然ながら様々な法を分別し了知します。まさに分別性と了知性があるからこそ、私たちはこの世界に生存し、活発に活動する衆生でいられるのです。

——生如法師の開示
前の記事前の記事

作意心所法の生じる縁

次の記事 次の記事

無明と染汚を取り除いて初めて、第七識の心は大智慧性を具えることができる

ページのトップへ戻る