衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常開示

2018年02月21日    水曜日     第4 回の開示 合計87回の開示

汝の意は信ずべからず

いつになったら人事や物事を正しく理解できるのでしょうか。仏は説かれました。四果の阿羅漢を証得しないうちは、自らの心を信じてはならない。衆生の身口意は清浄ではなく、心は染汚され無明に覆われているため、物事を見る目が曇り、人事物理を正しく認識できません。それ故に現れるのは、不正確な身口意の行い、あるいは悪しき身口意の行いです。たとえ明心見性した後も、内心にはなお貪瞋痴の煩悩と無明が残っており、菩薩が三果や四果の位に至らない限り、同様に貪瞋痴の煩悩を抱え、これらの煩悩が現行して身口意の悪業を造ることになります。ただし菩薩の煩悩業は凡夫より幾分軽微であるに過ぎません。

初地に入って初めて、煩悩は有効に制伏されます。初地に入る時、菩薩は必ず三果または四果の境地に達しており、全ての煩悩が有効に制伏され、智慧が深遠広大となります。心が清浄になり、初歩的な無漏を達成するに至ります。心が初歩的な無漏に達した時、定力と智慧を兼ね備え、人事をはっきりと見極められるようになります。その身口意の行いは必ず他者より清浄であり、この時に初めて自らを信じ、己の心を信じることができるのです。もっとも多くは人によって異なるため、一概には論じられません。これ以前において我々は過信すべきではなく、人や事柄を見る目は常に誤りを犯しがちです。智慧による弁別が欠如している故です。

要するに、識が清浄でなければ見も清浄ではなく、見が清浄でなければ了別も清浄ではなく、了別が清浄でなければ想も清浄ではなく、想が清浄でなければ説も清浄ではなく、説が清浄でなければ作も清浄ではありません。七識に染汚と無明があるため、身口意の行いがすべて清浄ではなくなり、身口意の行いが清浄でなければ業種も清浄ではなく、業種が清浄でなければ果報も清浄ではありません。この業種の不浄が来世の身口意の行いを依然として清浄ならしめず、生死を重ねるごとに清浄さを失い、ついに生死輪回を止むことがなくなります。ここに仏法を学び修行し、無明を去り染汚を除くことが如何に重要であるかが明らかでしょう。

解脱般若唯識七群 238324425へのご参加をお待ちしております

——生如法師の開示
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無明と染汚を取り除いて初めて、第七識の心は大智慧性を具えることができる

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