識陰における観察修行は、識の種子が七つの識の機能作用を生じる過程を観じ、特に六識の機能作用を主として捉えます。受・想・行・識の識種子が顕現して六識を形成した後、初めて六識の様々な機能作用が生起するのです。
六識が生起すると受覚が現れ、続いて識覚の分別作用が起こり、行覚が生じます。これにより受陰・想陰・行陰・識陰の全ての機能作用が具現化します。これらの機能作用を逐一詳細に観察し、一点も見逃すことなく明らかにすべきです。識種子が生じた後、識心がこれらの作用を有することを了知することは極めて重要であり、これを明晰に観察すれば大小乗ともに悟りを証得できるのです。
識陰において主に観察すべきは受の虚妄性です。我々の五陰は依然として受陰を主とし、衆生は自らの覚受を真実と錯覚し、この覚受を中心に五陰の身口意の活動を展開しています。この受覚が如何に不実で生滅し、空であり苦であり無我であるかを観じ、次いで想陰・行陰へと観察を進めます。想陰とは執取・取相を指し、心に相を捉え分別了知し、或いは種々の思想思惟をなす働きです。
行陰は識と不可分の関係にあり、識は必然的に運行を続けます。識が運行して初めて受・想が生じ、分別などの機能作用が現れます。識種子が識を形成するこの過程を明晰に観察すれば、大小乗の教えは全てここに帰着し、将来証得する智慧は極めて深遠なものとなります。悟りが忽然と唯識の理に達する時、その悟境は禅宗の悟りよりも遥かに深透し、識の本質を徹見する智慧が現前し、速やかに唯識の種智を具備するに至るでしょう。
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