衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2018年02月15日    木曜日     第2 回の開示 合計49回の開示

如何に五蘊の無我を観行するか

問:例えば、ある人が私(色身)を殴り、罵ったとします。私は怒りを覚えます。このように考えます:彼が打ったのはただの色身であって私ではない、痛みはただの感覚であって私ではない、真実の私は第八識である。怒っているのはただの意根であり、彼が罵ったのもただの意根であって私ではない。

答:このように考えるべきです:色身が打たれるとは何か?色身とは四大が組み合わさってできた肉体であり、細胞が積み重なって形成された筋肉・骨・血液などが組み合わさり、木のような身体を形成したものです。この身体は生滅変化するもので、縁起によって生じた無常で空なる存在であり、私ではありません。もしこの身体が私なら、身体が滅びた時に私も滅びるでしょうか?実際には私は滅びず、来世も無量世もあるのです。故にこの身体は私ではありません。

色身が私でないことを観行するには深い禅定が必要です。色身を機械化されたロボットのように観じ、この色身の生住異滅が私の制御を超えていることを観じます。これが総原則であり、細部は自ら一つずつ観行し、様々な認識を自ら実証確認すべきです。

次に受蘊を観想します。他人に打たれ罵られて怒りを覚えるのは私の感受です。この感受は本当に実在するのでしょうか?感受はどのように生じるのでしょうか?感受は意識心の受であり、痛みを感じるのは身識の受です。全ての受は結局六識の受であり、六識の受は私なのでしょうか?本当に実在するのでしょうか?この受は識の種子から生じたもので、刹那刹那に生滅変化する虚妄で空なる幻影です。すぐに消滅するため、受は私ではありません。今打たれ罵られて不快な感受があっても、後で宝くじに当たれば感受は快に変わり、楽しく感じるでしょう。このように生滅変化し続け固定されず永遠に存続しないものは、根本的に実在せず私ではないのです!

さらに想蘊について、他人があなたを罵る言葉の意味を理解するのは意識の了知性であり、想蘊です。この想蘊はどのように生じるのでしょうか?識の種子から生じて識陰を形成し、識陰が作用することで了知性が生じます。この了知性は生滅変化し、不変不滅でなく幻影で空なるため、想陰も私ではありません。永遠不変で本来存在せず後天的に生じたものは全て私ではないのです。想蘊は眠れば何もわからず、他人に罵られても気付きません。つまり生滅虚妄で不変不滅のものではないため、私ではないのです。

行蘊については、六識の行為造作であり身行・口行・意行を含みます。心中の全ての念頭思想・了別性・感受性、刹那生滅するものは全て行蘊に属します。行蘊である識心の運転も生滅変化し不変不滅ではないため、私ではありません。六識の識蘊、識自体の作用、心所法も全て生滅変化します。結局五蘊全体を見れば、不変の法は一つもなく全て生滅変化し、有ったり無かったり、こうなったりああなったりする被造法で実在しないのです。

では怒りという感受は実在するのでしょうか?実在しません!すぐに怒りは消え、常に変化します。つまり全ての心識の作用は虚妄で実在の法はないのです!死後、色身に識心がなくなれば、他人が色身を打っても痛みを感じますか?感じません!怒りますか?全く怒りません。つまり識心が色身を離れれば色身は木と同じで私ではないのです。色身に宿る識心さえ私でないのに、まして色身自体はなおさら私ではありません。そもそも私が存在しないなら、誰が誰に怒るというのでしょうか?

——生如法師の開示
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