衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2018年02月12日    月曜日     第2 回の開示 合計27回の開示

意根における最深智慧の悟り

仏は意根が黙して一切の法を容れると説かれた。黙容は遍縁と等価である。最も重要なのは、第八識が単独で法を顕現し、法を執持することはできず、必ず意根を必要とする点である。もしそうでなければ、無余涅槃においても第八識が法を顕現し執持するならば、それは寂静ではなくなってしまう。意根は三界の法が現起する根本的な動力であり、いかなる法の現起も意根の推動によるもので、第八識が単独で作動することはあり得ない。これにより、一切の法には第八識の作動だけでなく意根の作動も存在し、したがって意根は一切の法に縁起し、一切の法に意根が欠けることはないのである。 

たとえ意根が受け入れ難い果報や、攀縁したくない業種であっても、意根の縁によって第八識が業種を現行させる。もしそうでなければ、阿羅漢にまだ業種が残っている場合、無余涅槃において第八識は業種を現行させるべきである。もし現行させるならば、それは無余涅槃の境地ではなくなり、第八識が有為の業を造作することになってしまう。

意識は単独でいかなる機能作用も持たず、常に意根と結びついており、また意根の協力による結果である。意識は意根から離れて単独で作動することはできず、したがって意根の作用は非常に顕著かつ重要であると言える。

人間の意識が発動する過程は、まず意根が念を動かし、作意した後に思心所が現れ、その後意識が念頭や考えを生じさせる。念を動かすとは必ず意根が先に念を動かし、その後意識の念頭が現れるものである。意根の念がなければ意識の念も存在しない。参話頭において最終的に意根を話頭に繋ぎ止め、念々忘れず朝に夕にこれを思うことで初めて参を破ることができるのも、これまた意根が念頭を動かした結果である。意根が念を起こす、つまり作意である。念を動かすとは作意に他ならず、用語が異なるだけである。

実のところ六識と第八識は常に二人羽織りの如く協働しており、それ故に六識の身口意行において第八識の痕跡を発見し得る。同様に意根と第八識も二人羽織りの如く協働しており、意根の作動において第八識の痕跡を見出し、意根の作意・触・受・想・思において第八識の痕跡を探り当て、意根の全ての選択と主宰的機能作用において第八識の痕跡を認め得る。したがって意根において悟道することはより深遠かつ直接的に、より徹底的かつ究竟であり、このようにして発起する智慧は最も深遠なものとなるのである。

——生如法師の開示
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