生が夢を見るのは、意根が絶えず何らかの法に縁を攀じ執着するためであり、第八識が随順して夢境を生じさせるからであります。夢境は独影境に属し、意識心が単独で了別するもので、五識の配合を伴いません。独影境が現起する縁は比較的少なく、意根が何らかの法を執着し心にかけるだけで独影境は現れ、その後意根が独影境と接触すると、第八識が意識を生じて独影境を了別させます。しかし夢中の意識の思惟と判断力は不十分で、分別力は比較的弱く、識別の勢いも強くはなく、受動的に夢に引きずられることが多く、これが夢であることを知りません。同時に意識の内省力も比較的弱く、智慧性に欠けるため、自らの活動が夢中にあること、夢中の独影境を了別していることを知らず、従って自らが夢中にあること、夢を見ていることを認識できないのであります。
もしある程度修行を積んだ者がいれば、意根が仏法と善法によって有効に熏習され、意識に悪業を造作するよう指揮せず、意識の行為を制御できるようになります。このような者は中有の身にあっても、意根が六識に悪業を造作させず、悪縁に随って業行を現じることなく、六識を主導して善を行い、善業を造ることが可能となります。このように心が善であるため善道と相応じ、善道に生を受ける可能性が比較的大きくなります。また意識も善道を選択する智慧を持つため、善処に生を受ける機縁が生じるのであります。
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