我々が目にする物質は、実は粒子の集合体に過ぎず、四大要素によって構成されており、実体ある固体形態を有するものではありません。これらの粒子が絶え間なく生滅変異し転換する現象は、如来蔵が四大種子及び四大微粒子を輸送・回収する形式によって生じるものです。従いまして、如来蔵が外色法と相応して接触する際、一切の四大微粒子は如来蔵に帰属するものであり、如来蔵が四大微粒子や外六塵に触れるか否かを論ずる必要もございません。如来蔵がこれらの外六塵の微粒子を如何なる場所へも伝導するのは、本来の分際と本能によるものであります。仮に一人の人間が無量の分身を有する場合、その如来蔵が外六塵を無数の分身へ伝導することも何ら不思議ではございません。如来蔵は四大種子を用い、異なる数量と配列組合せによって、無量無辺の物質色法を生成することが可能であり、我々の意識では想像も及びません。これは福徳が有限であり、智慧が限定され、徳能に限界があり、無明煩悩による覆障を受けるが故に、知り得る範囲と理解の深度に甚大な制約が生じるためであります。従いまして、我々は無明煩悩及び習気を除去し、心の地に覆いかぶさる障礙を取り除き、心量と眼界を拡大させ、智慧を極限まで増長させて、仏の智慧境界に到達せねばなりません。
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