衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2019年01月26日    土曜日     第1開示 合計1206開示

なぜすべての受は苦なのか

苦には三種類ある:苦苦(くく)、行苦(ぎょうく)、壊苦(えく)。あるいは八苦に分けられる:生老病死苦(しょうろうびょうしく)、求不得苦(ぐふとくく)、怨憎会苦(おんぞうえく)、愛別離苦(あいべつりく)、五陰熾盛苦(ごおんしじょうく)。行苦の「行」とは、運行と変化を意味し、五陰(ごおん)の身心が少しずつ変化し壊れていくことで、根本的に留まることができず、捉えどころがない。そのため五陰には行苦がある。壊苦の「壊」とは、破壊、消散、変異を指し、五陰もまた捉えどころがない。そのため五陰には壊苦がある。一切の苦そのものが一つの苦である、これが苦苦の意味である。衆生には三苦や八苦だけでなく、拡大して細分化すれば無量の苦がある。しかし愚かな衆生は苦の中にいながら苦と知らず、お釈迦様がわざわざ娑婆(しゃば)世界に来て苦聖諦(くしょうたい)を説かれた。説かれた後も、衆生は依然として苦を認識できず、苦を断つこともできない。

受(じゅ)は苦受(くじゅ)、楽受(らくじゅ)、不苦不楽受(ふくふらくじゅ)に分けられるが、いずれの受も苦である。楽受の中にも行苦があり、楽受の後には壊苦が訪れる。楽受の最中にも、心には依然として苦があり、楽の時は純粋な楽ではない。さらに衆生は様々な楽受に対して一定の代償を払わねばならない。そのため五陰の世の中には真に苦のない楽受は存在しない。

無色界(むしきかい)において、非想非非想処(ひそうひひそうしょ)の禅定(ぜんじょう)の境地は極めて楽しいが、そこにも行苦がある。時間が非常に速く過ぎ、定中(じょうちゅう)の八万大劫(はちまんだいこう)はあっという間に過ぎ去り、過ぎ去った後には一切の苦悩が現前する。衆生は楽しい時にその楽が消えることを望まないが、この望みそのものが苦であり、求めることによる苦に属する。衆生が仏法を求める際には辛苦の代償を払わねばならず、これ自体も苦である。しかしその苦の中には楽受があり、その後一切の苦は次第に楽受へと転化していく。だからこそ我々は精進して仏法を修学し、困難や艱難(かんなん)を恐れず、修め続ければ最後には全て楽受と捨受(しゃじゅ)へと変わるのである。いずれの受も無常(むじょう)であり、無常なるものは苦である。故に「受あるものは皆、苦なり」と言うのである。

——生如法師の開示
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