衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常開示

2021年08月28日    土曜日     第1 回の開示 合計3496回の開示

諸仏菩薩は何故悪薫を受けざるや

もし衆生が世に処して悪縁に遇えば、なおも熏染を受け、煩悩が現れるのは、衆生の意根が煩悩と相応し、煩悩を断除していないが故に、縁に遇えば即ち染まり、縁に遇えば即ち悪業を現すことを示しています。諸仏は三大阿僧祇劫の修行を経て、すでに一切の貪・瞋・癡・慢・疑・悪見などの煩悩染汚、及び一切の煩悩習気を断除し、余習無きに至っています。五濁悪世に来たりて諸々の煩悩衆生と接触するも、根本より衆生の煩悩による一絲の熏染・染汚を受けることなく、心は永遠に清浄無染です。これは仏が初地において既に煩悩を断除し、心に染汚無きが故であり、ただ煩悩習気が未だ断尽されていないだけです。初地より断除した煩悩は、六識・七識ともに断除した煩悩であり、第七識が煩悩を断じた故に識を転じて智と成し、平等性智を具え、一切法を平等無二と観じ、自他の別無きが故に私心無く、人と事に対し平等に接するのです。

第七識である意根が煩悩を断除した故に、後世いずれの処に生まれ出づるも、意根には煩悩無く、熏染を受けません。しかし煩悩習気が未だ断除されていない時、習気が偶々現行することは免れ難く、意識も偶々環境の熏染を受けます。意識が熏染を受け多少の煩悩を現じても、速やかに消除され、持久・堅固となることなく、また意根に熏染影響を及ぼすこともありません。意根が熏染を受けず、自ら煩悩無きが故に、意識の煩悩は容易に断じ得るのであり、さもなければ意識は意根に左右され、煩悩は容易に断除されないのです。八地以上の菩薩は意識も熏染を受けず、煩悩を現行せず、諸仏の意識はさらに一絲の熏染・染汚も受けず、煩悩と習気ともに現れず、色を見ても貪らず、財を見ても愛さず、権勢や地位を求めず、瞋らず怒らず、煩わず躁がず、心は柔軟調和し、寂静にして寂静です。

これに対し凡夫衆生の六・七識は一切の煩悩を具足し、縁に遇えば即ち熏染を受け、往々にして常に環境に随順し、環境に対し多少の抵抗力も無く、色を見れば愛し、財を見れば貪り、権勢を好み、名利を求め、逆縁現前すれば瞋怒常に其の心に随い、私心・我心極めて重し。ここに見る如く、凡夫衆生の意根は一切の煩悩(貪・瞋・癡・慢・疑・悪見)を具足し、意識は意根に随い、煩悩もまた常に現前し、染縁に遇えば意識は容易に熏染を受けます。意根が三世を連ね、また一切の煩悩を具足するが故に、生死輪廻が断絶せず、中有身及び後世出生の時より即ち一切の煩悩を具足し、前世と異なることなく、生生世世煩悩止まないのです。

ただし我見・我執・我慢・我痴の煩悩のみは恒常に意根に伴って不断に運行し、暫くも停まる時無きが、他の煩悩は恒常に意根に伴って運行するものではなく、縁に遇って初めて現行し悪業を造作し、業種を存留させ、以て後世の生死輪廻を延続させるのです。

——生如法師の開示
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