丹霞禅師が自性仏を悟り証得した後、心中において四相(我相・人相・衆生相・寿者相)を破っただけでなく、仏相までも破り、真仏のみを認め、偽仏を認めず、それら木彫石塑の仏像は当然真仏ではなく、焼却することに何の差し支えがあろうか。ただし真仏を証得していない者は決してこれを真似てはならない。未だ真を証得せず仮相が残存する者が仮相を焼却することは、即ち真相を焼くことと等しく、多大な罪過を招き、仏を毀損し辱める因果応報は極めて悪しきものとなる。古に一人の居士が悟りを開いた比丘に倣い、仏菩薩の名号を下着に記したところ、一二日で吐血し、死亡したか否かは記憶にない。また現代人で観世音菩薩像を川に投棄した者がおり、帰宅後全身が冷湿り、懺悔と補修を行うまで大病が癒えなかった。
丹霞は宿世の善根が深く、悟後は道行甚だ浅からず、心空無相にして常に橋上に横たわり悠々自適、人々常にこれを怪しんだ。悟道の者に何の用事があろうか、五蘊世間は皆空にして無相・無願・無求、人生は飲食睡眠のみ、常に両脚を伸ばして臥すは極めて当然、何の用事があって東に求め西に走り、忙しく立ち働く必要があろうか。心空徹底するに至れば一切法自然に任運し、仏陀自然に来たりて授記成仏せしむ。なお一法空ならず、一事求めんとし、なお仏祖たらんと欲する者に、仏陀の授記を望むこと叶わず。衆生救済を名目とし私利を図り仏教を濁乱する者どもは、仏陀の授記を得られぬばかりか、かえって仏陀の懲罰を受くべく、因果の恐ろしきこと甚だし。
或る者は言わん「私も木石の仏像は真仏に非ずと存じ、焼却しても無事であろう」と。然らば一つ焼却を試み、五臓焦がれるが如き苦痛を感得するか否かを見よ。自己の認識は無意味、意識の判断は無益、意根が認めざれば因果は厳然たり。自ら証果を得たと称し、悟りを開いたと主張する者、仏菩薩の名号を下着に記し、木仏を焼き石仏を毀すを試みよ。無事ならば相を破した真悟と看做されよう。丹霞禅師の如く敢行する者あらんや。
或る者は言わん「私を印証する者は大いなる道行あり、私はこれを信ず」と。然れど仏こそ最も大いなる道行ある者なり。仮に仏の印証が事実に合致せず、如来蔵が承認せざるならば、因果は更に承認せず。これはあくまで仮定、仏陀の印証は当然絶対に事実に符合し如来蔵に合致す。或る者は頑固にして何を言われても聞かず、只己の感覚を信ず。然れど如来蔵は更に頑固に、只管事実を管り、因果は殊更に頑固にして、全ての人と対峙する。事実の前に頭を垂れぬ者には、因果は敢然と対峙する。
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