小乗が証得する五蘊の空と大乗が証得する五蘊の空には本質的な違いがあります。この違いがあるがゆえに、大小乗の修行者の心量・願力・道行も異なるのです。小乗の修行者は解脱後に無余涅槃に入りますが、大乗の修行者は解脱後も永遠に無余涅槃に入りません。小乗が証得する五蘊の空は外面的現象において証得されるもので、五蘊現象の生住異滅を観察して得られる空です。この種の空は究竟しておらず、未完成で偏りがあるため、智慧も浅く、行願も浅いのです。大乗が証得する五蘊の空は五蘊の本質から証得されるもので、五蘊の本質が如来蔵から生じたことを見極めるため、五蘊に執着せず、五蘊を滅しようともせず、ゆえに行願が大きいのです。
例えば、ある人々は人が生まれては死ぬのを見て、人間が無常で滅びるもの、捉えどころのない存在であることを悟り、空であると理解します。一方、他の人々はそれだけでなく、この人間が実は魔術師が幻化したものであり、生死が魔術師に掌握されていること、たとえ死んでも魔術師が再び幻化できること、生死が全て仮相であることを見抜きます。後者の人々はこの幻化された人間に執着しませんが、故意に回避したり捨てたりもしません。
実際、小乗が考える空は「有」と対立する空であり、これはまた別種の「有」に他なりません。小乗の空が表面的現象に留まり、実質的な空ではないがゆえに、彼らは五蘊を滅しようと努め、避けようとし、五蘊の世間を恐れるのです。これこそが別種の「有」です。真に空であるなら、何を避け、何を恐れる必要がありましょうか。天女が花を散らす例えで言えば、小乗は花が身に付着するのを恐れ、花を避け、衣の花を払い落とし、花が付着するのは法に適わないと考えます。一方、大乗はこれらの花を気にせず、全身に花が付着していても平然としているため、かえって花は付着しません。
なぜ大乗菩薩はこのような心境なのでしょうか。菩薩は花が幻化した仮相であり、実質的な作用を持たないことを知っているからです。色身も同様で、幻化身と幻化花に何の障害がありましょうか。これらは全て自ら実証して体得すべき法であり、実証がなければ理解はできても体得には至りません。小乗は確かに「空」があると認めますが、大乗は「空すらも空」とし、空空もまた空として、空が尽きてこそ究竟に至ると考えるのです。
24
+1