衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2019年01月27日    日曜日     第4 回の開示 合計1211回の開示

無所得のみが成仏できる

仏は金剛経において、仏は無所得によって仏と成り、一法も得ずして初めて仏となることができると説かれました。もし一法でも得る有りと考えるならば、仏となることはできません。なぜこのように説かれるのでしょうか。仏は大智慧・無上の智慧によって仏と成られましたが、その智慧はどのように得られたのでしょう。仏は凡夫より修行を始め、三大阿僧祇劫を経て、徐々に全ての無明を破り尽くされました。一つの無明を破るごとに一つの明が現れ、心の闇が一部分消えるごとに、一部分の光明が現れます。この光明こそが智慧です。全ての無明が滅び尽きると、一切種智が現れます。故に仏の無上智慧・無等等智慧は獲得されたものではなく、得られたものでもなく、無明を滅尽して現れたものです。つまり仏となるとは何らかの法を得ることではなく、一法も得ずして全ての障りを取り除き、心の光明が自然に現れた状態を指します。我々が仏法を学び修行する目的は、無明を破ることにあり、何かを得ようとする心そのものが無明であり、障りとなり、智慧が現れないのです。

真の正信には現量観察の智慧が必要です。そうでなければ、信仰は偏信や盲信に流れがちです。たとえ仏経であれ、真に智慧ある者は疑いを抱き、実際に検証する方法を求めるべきです。ましてや仏の説かれざるものについてはなおさらです。

インターネット上では、六祖大師を仏の再来と称し、その説法が仏の証量を備え、六祖が既に仏の境地を修得したとする人々が少なくありません。私はこれらの人々がどのような根拠でこのような結論を下したのか、本当に理解できません。ある人を大学教授レベルと認定するには、その大学教授以上の見識が必要であり、少なくとも同等のレベルがあって初めて認定を与えられるものです。末法の衆生は既に仏を修得したかのように、仏の智慧をもって六祖が成仏し仏の証量を備えたと認証しています。六祖壇経という薄い一冊の書物を、恐らくこれらの人々は誰一人理解できていないのでしょう。そうでなければ、このような断定を下す者などいないはずです。

——生如法師の開示
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