衆生の業は自らが了する必要があります。主に心を了することであり、心が了すれば、業も了することができるのです。心を了するには、仏の加護だけでは不十分で、自らが積極的に協力し、自らの心を改め、無明を断ち切らなければなりません。そうして初めて業を了することができるのです。もし殺生の業があっても、仏菩薩が代わりに了じてくださっても、あなたに殺意が残っているなら、将来また悪業を造ることになります。それではどうして業を断つことができましょうか。貧困の業は誰が代わりに了じられるでしょうか。福德は自らが修めるものであり、他人が代わりに修めることはできません。禅定は自らが修めるものであり、他人が代わりに修めることはできません。戒律は自らが守るものであり、他人が代わりに守ることはできません。明心は自らが明らかにするものであり、他人が代わりに明心見性することはできません。仏は自らが修めて成じるものであり、他人が代わりに成仏することはできないのです。
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