人間の根本性とは、人が生まれながらに持つ心性のことであり、一つは意根の心性、もう一つは如来蔵性である。後天的に薫習された本性こそが意識の心性である。人間性の根本は、五蘊の面からは意根を見る必要があり、全体としては如来蔵を見る必要がある。人の心性の表現を見るには意根を見るべきであり、意根が根本であり、意識は枝葉である。意識という枝葉が繁茂すれば意根という根本を覆い隠すこともあるが、意識の枝葉は必ず枯れ落ちる時が来る。その時、意根の根本は完全に明らかになります。
五蘊の面からは意根の心性を見る必要があり、本質的には如来蔵の心性を見る必要があるが、一般的には五蘊の心性を見ることが多い。意根が無始劫以来どのような性質であるかによって、人間性もまたその性質となる。意根がどのような心性であるかによって、人間性もまたその心性となる。すなわち、畜生がどのような心性であれば、鬼神もまたその心性となり、阿修羅がどのような心性であれば、天人もまたその心性となる。さらには阿羅漢がどのような心性であれば、辟支仏もまたその心性となり、菩薩がどのような心性であれば、仏もまたその心性となる。意根よりも根本的なのは真心如来蔵の心性である。したがって、人間性の本来性とは如来蔵性そのものである。
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