衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2019年02月01日    金曜日     第1開示 合計1223開示

菩薩によって救われるのはどのような衆生なのでしょうか

菩薩は覚有情であり、自らが悟りを得た有情です。そして他の有情をも覚醒させ、自らを利するだけでなく他をも利します。菩薩はまた大心の衆生であり、個人の安楽を求めるのではなく、ただ衆生が苦から離れることを願い、心の度量は広大で寛容、あらゆるものを包み込みます。弥勒菩薩のように、太っ腹で天下の耐え難き事をも包容します。真の菩薩の目には、是非も対立もなく、内面は円融無礙で、一切の人事物と怨対しません。菩薩は全てを自らと見なし、全ては自心の影に過ぎず、心の外に物はありません。菩薩の目には悪人はおらず、ただ因縁が熟さず、暫時教化できない衆生がいるだけです。

菩薩が衆生を観る際、表面的な善悪を見ず、実質に重きを置き、善根を見、潜在能力を見、福德を見、因縁を見、智慧を見ます。観音菩薩は常に様々な姿に変化して衆生を度化します。しかし彼が度化する衆生は、必ずしも表面的な善人ではなく、因縁が熟した人々です。因縁が熟した者は、たとえ表面的に悪であっても、善根は比類なく深厚です。度化された後は、善をなす力が小善人より百千万倍、無量倍も強くなります。『楞厳経』で淫女が釈尊によって四果の阿羅漢に度化されたのに対し、あの善人たちは凡夫のままでした。勇施比丘は重戒を犯したのに釈尊によって悟りを開いた大菩薩に度化され、あの戒律を守る比丘たちは依然として凡夫でした。唐代の猟師は鹿を殺し続けていましたが、出家の因縁が熟した時、禅師に出会い、禅師の数句の問答によって比丘に度され修道し、まもなく心を明らかにして悟りを得ました。

ゆえに善悪というものは一概に言えず、衆生の根性もまた言い難いものです。多くの場合、悪人と見なされる者は善根が深く智慧が高いため、縁に遇って修行すれば非常に速やかです。一方、心性が通じない小善人は後ろで懸命に追いかけても追いつけません。仏は「智慧によって解脱し、智慧によって仏となる」と説かれました。心性が円融無礙で一切を包容すること、それが智慧なのです。

私たちの如来蔵を見てください。決して一つの法と対立せず、常に一切の人事物を包容し、善悪是非の如何を問わず、衆生が何をしても全てに随順します。衆生が天に昇れば天に随順し、衆生が地に入れば地に随順します。こうして如来蔵は一切の法を円満に成就します。どのような法でも滞りなく顕現できます。直に遇えば直に、曲がりに遇えば曲がりに、方に遇えば方に、円に遇えば円に。心性は剛直でありながらも、曲がりに従って曲がることを妨げません。こうしてこそ永遠に壊れず、永遠に砕けず、永遠に生滅しません。心性が円融無礙であれば、無量の福德と智慧の徳能を具えるのです。

——生如法師の開示
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布施は福徳を積み道業を進めるのみならず、仏恩に報いることでもあります

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