すべての人の我執は非常に重いものであり、仏法を学ぶことによって世間の真実相を認識した後、我執は徐々に消融していくのです。前世において仏法を学んだ期間が長い者もいれば短い者もおり、これによって衆生の根基には違いが生じます。しかし、いかなる根基を持つ者であれ、仏法に入った時点で他の衆生より先に覚りを開く者であり、慶ばしいことと感じるべきです。私たちの後方には数え切れないほどの衆生がおり、人間の身さえ得られず、ましてや仏法に触れる機会もなく、苦悩は果てしなく続きます。私たちが成仏する時、彼らがどのような生存様式の衆生であるかさえ分からないのです。したがって、私たち仏教徒は悲愍の心を起こすべきであり、自らを憐れむだけでなく衆生をも憐れみ、もし衆生を救済する心を発起できれば、自己の修行は急速に進むでしょう。
できる限り多くの福徳を修めなさい。福徳が増えれば道業は進歩し、智慧は成長します。多くの人々が福を修めることを軽視するため、長年仏法を学んでも仏法的知見は浅薄なままで、智慧は少しも向上せず、根本的な問題は福徳の不足にあります。積極的に福を修める人々は急速に進歩し、智慧も速やかに増進します。福を修めることが自分に有利か、修めないことが有利か、どうか皆さんよくお考えください。
仏は福慧両足尊であり、成仏には福徳と智慧の両方が相まって必要で、どちらも欠くことができません。福徳と智慧は双子の兄弟のように分かち難いものです。各人がある程度修めると、福徳が不足して行き詰まり、停滞したり退転する者が現れます。これは私が仏教徒を観察して得た所見です。
仏法の修学には次第があります。相を破る布施・相に住しない布施・布施の果報に執着しないこと――これらは凡夫には到底できません。もし布施の果報に執着するのを恐れ、相に着いた布施を恐れて布施をしないなら、永遠に福なき凡夫でいることになります。明心した後、一定の果位に至って初めて、徐々に無相布施が可能になるのです。凡夫の段階では、布施には必ず相が伴います。しかし相に着くことは問題ではありません。布施は結局福徳を得る手段であり、福徳があれば道を得られる――これが最も重要なことです。
私たちが大乗仏法を修学する際、阿羅漢のように自己のみに専念し衆生の苦しみを顧みてはなりません。阿羅漢たちは自了漢です。自らの苦しみを断つ能力はあっても、仏から焦げた芽・腐った種と呵責され、無為の坑に堕ちて仏法の根苗を生長させません。もし皆が阿羅漢のようであれば、この世の衆生を誰が救うのでしょう。私たちは皆仏菩薩に救済を頼っているのです。阿羅漢が法を伝えず、菩薩も法を伝えなければ、衆生は永遠に生死の苦海の中にあり、解脱の期は訪れません。私たちが受ける一滴の恩恵も全て仏菩薩から頂くもので、衆生が六道を輪廻する中で菩薩の救済を必要とします。もし菩薩が法を伝え衆生を度化しなければ、私たちが仏法に出遇う日は永遠に来ないでしょう。私たちは皆このような事態を望みませんから、心を以て心に比べ、常に他の衆生の苦しみを思い、彼らの悩みを解決する方法を考えねばなりません。これこそが仏菩薩のご加護に報い、自らを救う仏法に出遇った意義を活かす道であり、仏菩薩の恩徳に報いる方途なのです。
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