衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2019年02月01日    金曜日     第3開示 合計1225開示

仏法の修証には大きな善根と福徳が必要である

仏法は悟りを得ることが難しく、修行も困難であり、衆生は三大無量劫を修行する必要があります。もし仏法が理解しやすく悟りやすく修行しやすいものであれば、衆生は三大阿僧祇劫を修行しなければ仏道を完成させることはないでしょう。もし仏法が理解しやすいものであれば、仏陀は衆生に相応の善根・福徳と戒・定・慧を備えるよう強調されることはなかったはずです。三蔵十二部経を五回読んでも、仏法に縁がなく、悟りの影さえ遠く望めない人もいます。衆生は無量劫もの間迷い、虚妄の世間法に浸っているため、深遠な仏法を真に理解することは容易ではありません。

仏陀は四十九年間説法をなさいましたが、涅槃に入られる時点でも、なお無数の衆生が仏法を半ば理解しているか、あるいは全く理解していない状態でした。阿難尊者は衆生の愚かさが救い難く、仏法を誤解している様子を見て、仏陀の涅槃から百年後に自らも娑婆世界を去らざるを得なかったのです。本来なら禅定の力と福徳によって長く長くこの世に留まり、仏陀に代わって衆生を教化できたはずでした。仏陀が涅槃に入られた後、老僧が小僧に解脱の道の教えを「水老鶴」と誤って教えていたため、阿難尊者が訂正を求めましたが、老僧は改めず、むしろ阿難尊者が老いて混乱し仏陀の説法を覚えていないと主張しました。それで阿難尊者は悲しみのあまり、娑婆世界を去ったのです。

繰り返し強調していますが、皆様に福を多く積み、善根と福徳を養うようお願いしています。しかし福を積み善根・福徳を養おうとする人はほとんどおらず、仏法が理解できないのは当然のことです。仏法は福を積むことを惜しむ福のない者が容易に理解し悟れるものではありません。仏法を悟るには大いなる福徳が必要であり、大いなる福徳があって初めて大いなる智慧が得られます。小さな根性と小さな智慧では、深遠な仏法に相応しくないのは確かです。世間法の成就でさえ福徳を必要とするのに、ましてや生死に関わる出世間の大事、ましてや無量劫の煩悩から自らを解脱させる大事、さらに言えば仏道を成就するというこの不可思議な極めて大きな事柄においてなおさらです。心に自分しかなく、自利のみを考える者が、どうして無我の性質を持つ如来蔵の大法に相応できましょうか。

——生如法師の開示
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布施は福徳を積み道業を進めるのみならず、仏恩に報いることでもあります

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業に従って発現するとはどういう意味でしょうか

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