楞厳経における「業に循って発現する」とは、衆生が自らの業力と業縁に従って初めてある法に触れ、業縁がなければ接触できないことを指します。例えば金鉱の場合、採掘に行けば得られる者もいれば、得られない者もいます。水を例にとれば、必要としながら得られず渇死する者もいれば、過剰に触れて溺死する者もいます。地獄を例にすれば、見えて入ることができる者もいれば、見えずに行けない者もおり、天上界の境地も同様、極楽世界もまた然りです。すべての衆生が生きる環境は、業に循って発現するものであり、業なきところに現れません。
一切の法は業力によらずして心中に顕現することなく、たとえ衆生が同じ外六塵に触れても、業力が異なるため、各自の如来蔵が勝義根に伝える内六塵に違いが生じます。これにより各衆生が受ける影響は異なり、同じ境界に対する知覚と感受も異なります。最も著名な例として、天人・人間・餓鬼が同じ河を見る場合、外相分は同一であっても、見る内相分が異なり、受用も異なるという事実が挙げられます。
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