衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常開示

2022年07月23日    土曜日     第1 回の開示 合計3660回の開示

臨命終時に如来蔵はなぜ色身から徐々に退出するのか

色身は四大種子によって形成されたものであり、それは如来蔵における四大種子によるものです。死に臨んで色身内の四大は散滅するため、色身は滅して機能を停止します。命終の際、四大は分解分散し、種子は如来蔵に回帰します。この過程は一瞬で完了するものではなく、善悪の業によって必要な時間が異なります。四大の分解とは、色身上の四大種子が徐々に色身から退き、色身の機能が段階的に失われ、次第に硬化していくことを指します。この過程を方便的に「如来蔵が色身から退き、色身を保持せず、色身が生命力を失う」と説きます。

如来蔵は形相なく、その色身への出入りを誰も目にすることはできません。四大種子もまた無形無相であり、色身を形成し分解する様を視認することは叶わず、ただ色身の変化を通じて種子の作用と如来蔵の働きを観察するほかありません。色身に如来蔵の作用が及ぶ時、寿命・温もり・識が存在し、如来蔵が離れればこれらは消滅します。命終の際、寿命は徐々に失われ、体温は次第に低下し、身体は硬化を増します。識は漸く微弱となり、心は混迷を深めて無知無覚の状態に至り、中有の身へと移行します。如来蔵が最終的に色身を離れる部位、即ち四大が最後に分解する場所こそが、寿命の終点であり体温消失の最終地点であり、これが来世の生まれる業道を決定します。この身体の最後の部位が上方にあればあるほど来世の業道は善となり、逆に下方であればあるほど悪の方向へ向かいます。

衆生が目にすることのできない法こそ真実であり、目に見える法は仮の姿です。仮相を見て真実を見ないことを無明と称します。もし常に真実を見通すことができれば、世間に事あることなく、一切は空であり、情に執着すべき一法も存在せず、世間もまた存在せず、心は全て自性に回帰して智慧を具足します。これを智と名付けます。智は情ではなく、情あるものに智はありません。

——生如法師の開示
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