瑜伽師地論第三十四巻
原文:彼にはなお現量観を障げる粗い品類の我慢があり、作意に随入して間断なく、あるいは間断なく転じ、このように思惟する。『私は生死においてかつて久しく流転してきた。私は生死においてまた流転するであろう。私は涅槃においてまさに入るであろう。私は涅槃のために諸々の善法を修める。私は苦を観じて真実に苦であるとすることができる。私は集を観じて真実に集であるとすることができる。私は滅を観じて真実に滅であるとすることができる。私は道を観じて真実に道であるとすることができる。私は空を観じて真実に空であるとすることができる。私は無願を観じて真実に無願であるとする。私は無相を観じて真実に無相であるとする。このような諸法は私の所有するところである』と。この因縁によって、涅槃に対して深く心に願い楽しむけれども、心はそれに入ることができない。彼はすでにこのような我慢が障げとなることを了知した後、すみやかに智慧をもって通達することができる。
解釈:なぜ深く心に生死を厭い怖れ、涅槃を願い楽しむのに、涅槃に入ることができないばかりか、涅槃の法を勝解し安住することさえできないのか。修行者には現量観行を障げる粗い我慢がまだあり、観行の深入に随って断続的あるいは絶え間なく作意が生じ、心の中でこのように思惟するからである。『私はかつて長く生死の中を流転してきた。私は生死の中でさらに流転を続けるであろう。私は将来涅槃に入るであろう。私は涅槃のために諸々の善法を修習する。私は苦諦を観じて真実に苦であるとすることができる。私は集諦を観じて真実に集起であるとすることができる。私は滅諦を観じて真実に滅するとすることができる。私は道諦を観じて真実の道であるとすることができる。私は空を観じて真実に空であるとすることができる。私は無願を観じて真実に無願であるとし、無相を観じて真実に無相であるとする。このような諸法は私の所有するところである』と。
修行者の心にこれらの観念があるため、涅槃に対して深く愛楽することができても、心は涅槃に入ることができない。なぜなら粗重な我慢には遮蔽作用があるからである。修行者が以上の我慢が涅槃に入る障げとなることを了知した後、すみやかに智慧をもって通達し、それによって我慢の遮蔽を除去し、涅槃に入ることができるようになる。
注意深く何が我慢であるかを体得し、我慢の本質は何か、なぜ我慢があるのか、どのような現象が我慢を現しているのか、我慢の表現と相状は何か、我慢はどのように道を障げるのか、いかにして我慢を降伏するかを考察せよ。
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