一つのものには粗相と細相があり、粗相は比較的明らかで顕著であり、一目で見え、感じ取ることができる。細相は粗相の後に現れ、識別しにくく、注意深く入念に見なければ見えず、感じ取ることができない。一つの法もまた粗い部分と細かい部分に分けられ、識心すらも粗と細に分けられる。
煩悩は法である以上、かつ心法である以上、粗と細に分けられる。粗煩悩とは粗重な煩悩を指し、粗重煩悩とは比較的明らかな部分、気づきやすい内容を指す。「重」は深刻な意味であり、明らかで粗い煩悩は必ず比較的重い煩悩、あるいは非常に重い煩悩であり、誰もが見て取れ、感じ取れる部分であって、存在すべきではなく、世間の人々に受け入れられず許されない部分であり、最も先に断つべき煩悩である。世間の人々すら受け入れられない粗重な煩悩であるならば、修行界では、特に聖賢の法界では、なおさら存在し現行することを許されない。
貪・瞋・痴・慢・疑・悪見、この六つの根本煩悩は、それぞれの煩悩が粗と細の二大部分に分けられ、そのうち細かい煩悩はさらに細分できる。粗細は相対的に言うものであり、最も粗い部分を取り除くと、細かい部分も粗細に分けられ、ついにはこれ以上分けられない煩悩に至るまで続き、それが最も細かい極細の煩悩である。この部分の煩悩は凡夫には到底発見も識別もできず、おそらく幾地の菩薩であっても発見識別できず、それは八地以上の菩薩でなければ断じ切れない。比較的細かい煩悩は、凡夫は智慧が足りず、自らも断じておらず、発見もできず識別もつかない。初めて証果して明心した者であっても識別できず、経験と智慧が不足しているためである。
すべての煩悩は大まかに上中下の三品に分けられ、それぞれの品はさらに上中下の三品に分けられる。上品の煩悩は比較的明らかで、顕著で、深刻であり、最も先に断つべきであり、最も存在すべきでないもので、粗重煩悩と呼ばれる。これは四聖諦の修習過程において、初果向の段階で断つべきものであり、粗重な上品の煩悩を断って初めて、初果の予備となる機縁を得られる。そうでなければ初果向すら証得できず、ましてや初果から四果に至るまではなおさらである。
例えば貪りの煩悩は、粗細九品に分けることができ、さらに細分すればまた分けられる。最も粗い部分の貪りは非常に深刻であるか、比較的重く、普通の人でも見て取れ、感じ取り、耐えられない。これは存在すべきではなく、もしまだ存在しているなら、それは煩悩の重い凡夫である。例えば金銭面における大いなる貪り、男女の欲や感情面における大いなる貪り、色身に対する大いなる貪り、名誉・利益・供養に対する大いなる貪りなど、あらゆる面で言い尽くせない。他の煩悩も同様であり、深刻で明らかな部分はすべて粗重煩悩に属し、すべて初果あるいは初果向の時に断たなければならない。
もしある人が自分は証果した、明心見性したと言うのに、その煩悩がまだ重く、明らかで、簡単に人に見つかり、受け入れられないならば、その人は大妄語を吐いていると判断できる。その人が理論を滔々と語り、法を説く際に弁舌さわやかに巧みであっても、その身口意の行いが示す煩悩によって、彼が凡夫であると断定できる。その弁舌や理論のレベルは気にせず、理論的知識は実際の証量を代表しない。
もしある人が自分は何々の果位を証得したと言い、それを人に話し、もし他人が疑いを持てば非常に煩悩し、瞋心を起こし、人を怒らせ、罵倒し復讐し、人と悪縁を結ぶならば、その人は何も証得していないと断定できる。なぜならその煩悩があまりに粗重で、普通の凡夫すら超えているからである。自ら学んだ法を頼みとして衆生を蔑み、誹謗中傷し打撃を加え、強きを頼んで弱きを凌ぐ者は、基本的に粗重な煩悩を持つ凡夫であると断定できる。
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