衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2022年09月10日    土曜日     第2 回の開示 合計3674回の開示

預流果において断ずる粗重な煩悩とは何か

物事には粗相と細相があります。粗相とは比較的顕著で目立つ部分であり、一目で認識できるものです。細相は粗相の後に現れるもので、容易に判別できず、注意深く観察しなければ感知できません。一つの法もまた大まかな部分と微細な部分に分かれ、識心すらも粗と細に分けられます。

煩悩は法であり、しかも心法であるため、同様に粗と細に分かれます。粗煩悩とは粗重な煩悩を指し、粗重煩悩は比較的顕著で認識しやすい部分を意味します。「重」とは深刻な意味を持ち、明白で粗雑な煩悩は必然的に重大な煩悩、あるいは極めて深刻な煩悩となります。誰の目にも明らかで許容できない部分であり、最も優先的に断除すべき煩悩です。世間の人々ですら受け入れられない粗重な煩悩は、修行の世界、特に聖賢の法界においては存在を許されず、現行してはなりません。

貪・瞋・癡・慢・疑・悪見という六つの根本煩悩は、それぞれ粗と細の二大区分に分かれ、細煩悩はさらに細分化可能です。粗細は相対的な概念であり、最も粗い部分を除去すれば、細かい部分も再び粗細に分かれ、最終的に分割不可能な極微細な煩悩が残ります。この究極の微細煩悩は凡夫には全く認識・識別できず、恐らく初地から七地の菩薩さえも見分けられないもので、八地以上の菩薩のみが断除できるものです。やや細かい煩悩でさえ、凡夫は智慧不足のため自ら断除できず、初めて悟りを開いた者でも識別できません。これは経験と智慧が不足しているためです。

全ての煩悩は大まかに上・中・下の三品に分類でき、各品はさらに三品に細分可能です。上品の煩悩は最も顕著で深刻であり、最優先で断除すべき粗重煩悩と呼ばれます。これは四聖諦の修行過程において初果向の段階で断除すべきもので、粗重な上品煩悩を断じて初めて初果の預流果を得る機縁が生じます。これを断たなければ初果向すら証得できず、ましてや初果から四果に至ることはありません。

例えば貪の煩悩は粗細九品に分けられ、さらに細分化可能です。最も粗い貪りは極めて深刻で、普通の人にも明らかに認識され、容認できないものであり、存在すべきではありません。これが残存していれば、それは煩悩の重い凡夫です。金銭に対する大貪、男女の情欲や感情への執着、色身への固執、名誉や利養への貪りなど、その例は枚挙に暇がありません。他の煩悩も同様に、深刻で顕著な部分は全て粗重煩悩に属し、初果あるいは初果向の段階で断除されねばなりません。

もしある者が悟りを開いたと自称しながら、依然として煩悩が重く顕著で他者に容易に感知され、受け入れ難い状態にあるならば、その者は大妄語を吐いていると判断できます。たとえ理論を滔々と述べ、弁舌巧みに法を説く者でも、身口意の行いに現れる煩悩を見れば凡夫であると断定できます。弁舌や理論の水準は実際の証量を表すものではありません。

もしある者が特定の果位を証得したと宣言し、他人が疑問を抱くと直ちに煩悩を起こし、瞋心を生じて他者を怒らせ、罵倒し復讐し、悪縁を結ぶようならば、その者は何らかの悟りを得ていないと断定できます。その煩悩はあまりに粗重で、普通の凡夫を凌駕しているからです。学んだ法を笠に着て衆生を蔑み、誹謗中傷し、強者を頼り弱者を虐げる者は、基本的に粗重な煩悩を抱える凡夫と断定できます。

——生如法師の開示
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