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日常法話

2022年09月12日    月曜日     第1開示 合計3675開示

現観とは何か

瑜伽師地論第三十四巻

原文:能知の智によって。所知の境と和合し背くことなく。現前に観察する。故に現観と名づく。例えばクシャトリヤがクシャトリヤと和合し背くことなく。現前に観察するが如し。これを現観と名づく。ブラーミンなどもまた同様であると知るべきである。これもまた多くの相状を成就する。謂わく、かくの如き諦現観を証するが故に。四智を得る。謂わく、一切の苦行において。もし諸々の作意の中に住して善く推求するが故に。唯法智を得、非断智を得、非常智を得、縁生行は幻事の如き智を得る。

釈:真諦の法を知る智慧によって、知られるべき四聖諦の理と和合し一体となり、両者に乖離がなく、このような現前の観察を現観という。例えばクシャトリヤがクシャトリヤと和合し背かず、相違逆せず、このように現前に観察することが即ち現観であり、ブラーミンを現前に観察するのも同様である。現観はまた多くの種類の相状を成就しうる。かくの如き諦現観を証得すれば四智を得る。一切の苦行において、もしすべての作意の中に住して善く推求観行すれば、唯法智・非断智・非常智・縁生行如幻事智を得る。

能知智とは、法を見て法を知り法を証する第六識・第七識を指し、如実の観察智慧を具える。所知境とは第六識・第七識が観察する理法を指し、例えば四聖諦の理や般若の法などである。智と境が和合し一体となり、違逆なく、このような現前の観察を現観という。

和合し背かない、相違逆しないとは、主に第六識・第七識の智慧の境界、あるいは智慧の次元にあり、智慧が正しく法を観察認知するに足れば、理法と乖離せず、かつ現前の観察であって、揣摩や推論・想像・分析ではない。現前に存在する法が事実のままに、現量で観察し現量で認知する。これを現観という。現観の時、法を証得し、法智と類智を得る。現観でないものには法智も類智もなく、果証もない。

法に対する現前の観察と非現前の観察をどのように区別するのか。例えば苦諦を観察する場合、五蘊が苦であると感じ、現前に五蘊が苦であると観察した後、内心の苦に対する認知は非常に深く、時々刻刻心心念念において五蘊の苦を感知し、かつ心心念念において苦から逃れ苦を滅しようとする。この心の状態が無間作意を形成し、間断がない。無間作意とは、意根から生じる作意であり、意根が苦を感知したことで、単に意識の表面に留まらない。これが現前観察の結果である。

非現前観察の苦は、無間作意を形成しておらず、断続的で時々あり時々なく、しばしば苦を忘れ、依然として楽を追求し、出離心が強くなく、覚悟性が高くなく、行動力はさらに劣る。楽の境が現前すると、自らを見失い、楽の境に深く陥って苦を知らず、将来への希求は依然として大きく、楽を得て保持できると妄想する。このように一方で苦と感じつつ、他方で楽を追求する、心と言行が相反する状態こそが、苦を現前に観察していないことである。非現観の者は弁別する智慧力が不足しているため、往々にして自らのこの状況を現量観察であると誤解し、法を実証したと思い込むが、実際には実証とはまだ相当な距離がある。

非現前観察の者の普遍的な特徴は、煩悩が除かれず、無明が断たれず、言行が一致せず、表裏が違い、言うことと行うことが別々であり、東を指して西へ行き、口では空を説きながら、行為では至る所で有に執着し、空であるところは一か所もない。口では無我を説きながら、時々刻刻処々で我であり、隠そうとしても隠しきれない。実証がないため、実証後の身心の境界を知らず、自らの思考や行動がすべて実証の境界と反対であることも知らない。それゆえ根本的に自らの凡夫の特徴を覆い隠せないのである。

——生如法師の開示
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