瑜伽師地論第三十四巻
原文:若し境界を行ずるに、失念の故を以て、猛利なる諸煩悩の纏起こると雖も、暫く作意するに時速やかに除遣し、又能く畢竟して悪趣に堕せず、終に故思って所学に違越せず、乃至傍生をも害命せず、終に退転して所学を棄捨せず、復た五無間業を造る能わず、苦楽は自らの作れるに非ず、他作に非ず、自他作に非ず、非自他無因にして生ずるに非ざるを定知す。
釈:現観四智を有する行者は、若し境界の中に在りと雖も、暫時の失念の故に、猛烈なる諸煩悩の纏縛起こると雖も、暫く作意すれば速やかに纏縛を除遣し、且つ畢竟して悪道に堕せず、永劫に故意に所学に背く法を思惟せず、乃至畜生の命をも害せず、永劫に退転して所学の法を棄捨せず、五無間の悪業を造作する能わず、苦楽は自己の作れるに非ず、他法の作れるに非ず、自他共同の作れるに非ず、亦た自他和合の無因より生ずるに非ざるを確定して知る。
原文:終に外道を請じて師と為さず、亦た彼に福田の想を起こさず、他の沙門婆羅門等に、終に口及び顔面を観瞻せず、唯自ら法を見て法を得、法を知り法を得、法の源底を証し、疑惑を越度し、他縁に由らず、大師の教に於て、他に引かるるに非ず、諸法の中に於て無所畏を得、終に世の瑞吉祥を妄計して清浄と為さず、終に更に第八有生を受けることなく、四種の証浄を具足成就す。是の如き行者は、乃至世第一法に至る已前、勝解作意と名づく。
釈:終に外道を帰依して師とせず、亦た外道を福田と認めず、他の沙門や婆羅門等に対し、永劫にその顔面を仰望し、顔色を窺い、その説く所を重んじて、その口より法を得ず、唯だ自己独り法を見て法を得る。独り法を見て法を得、法の源底(根本)を証得し、全ての疑惑を解除し、外縁によるに非ず。法の源底を証得し得るは、善知識の教導による故に、善知識以外の他処より引き来たるに非ず。行者は諸法の中に於て畏るる所なく、終に虚妄に世間の種々の瑞兆や吉祥を清浄と計着せず、永劫に第八度の三界世間への受生あることなく、四種の証する所の法眼浄を具足成就す。かくの如き行者は、世第一法を修する以前に至るまで、全て勝解作意と名づく。
行者が四智現観を獲得した後、四加行を修習し、第四加行の世第一法以前の観行は全て勝解作意と称される。即ち現量実証以前の思考参究は、全て法に対する勝解と領解とすべきであり、勝解して後に初めて現量観察を得、これを実証と名づく。実証は初果位以上に在り、勝解は初果向或いは四加行の世第一法位に在り、四加行を経て初めて実証見道する。故に自らの智慧が現量観察智か、勝解か、或いは臆測推理分析等かを如実に観察し、自己の智慧の層次を了知してこそ、次の修行を計画し得る。
現観四智を具える行者は、永劫に他処より法を得ず知らず、他人の説く所を究竟の帰依処とせず、全て自己の現量観察に依って実証し、法を見て法を得る事は、自力の参究観行に依るのみで、他人の助力は及ばず、他人が指教する所は自己の現量観行に代わる能わず。疑惑は自己の観行を通じて解決すべきで、他人の説は内心の疑惑を解除せしめ得ず、自ら見証せざる故なり。或る者は方々に修行の成果を搾取せんと企むが、仏法は修する者が得るものであり、搾取した所自らの物とは成らず、見道の智慧も得られぬ。瑜伽師地論を指針とすれば、法理次第に明らかとなり、証果明心の事に就いては、誰が服従せずとも致し方なく、然らば弥勒菩薩を訪ねて説き論ずるより他なし。
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