原文:若行境界。由失念故。虽起猛利诸烦恼缠。暂作意时速疾除遣。又能毕竟不堕恶趣。终不故思违越所学。乃至傍生亦不害命。终不退转弃舍所学。不复能造五无间业。定知苦乐非自所作。非他所作。非自他作。非非自他无因而生。
解釈:現観四智を有する行者は、もし境界の中に身を置き、一時的に失念したために、猛烈な諸煩悩の纏縛が生じたとしても、暫く作意するだけで速やかに纏縛を除遣することができ、さらに畢竟して悪道に堕入することがなく、永遠に故意に所修学と相違する法を考えず、乃至畜生の命をも害することなく、永遠に所修学の法に退転し棄捨することがなく、再び五無間の悪業を造作することができず、苦楽は自己の所作ではなく、他法の所作ではなく、自己と他法の共同の所作ではなく、また自己と他法の和合無因に生ずるものではないと確定して知るのです。
原文:终不求请外道为师。亦不于彼起福田想。于他沙门婆罗门等。终不观瞻口及颜面。唯自见法得法。知法得法。证法源底。越度疑惑。不由他缘。于大师教。非他所引。于诸法中得无所畏。终不妄计世瑞吉祥。以为清净。终不更受第八有生。具足成就四种证净。如是行者。乃至世第一法已前。名胜解作意。
解釈:終究して外道を師として帰依することを求め請うことはなく、また外道を福田と観ずる想いを起こすこともありません。その他の沙門や婆罗门などに対しては、永遠にその顔色を仰ぎ見ることなく、その顔色を見て、その言うことを重んじ、その口から法を得るということはなく、ただ自分ひとりで独自に法を見、法を得るのです。独自に法を見、法を得て、法の底源(根本)を証し、すべての疑惑を解除しますが、それは外在の因縁によるのではありません。法の底源を証することができるのは、善知識が教導した縁故であり、善知識の外の他のところから引き寄せられたものではありません。行者は諸法の中において無所畏懼であり、終究して世間の種々の瑞象や吉祥を虚妄に計著して清浄とすることはなく、永遠に再び第八次の三界世間への受生がなく、四種の所証の法眼浄を具足成就します。かかる行者は、世第一法に至る以前は、勝解作意と名づけられるのです。
行者が四智現観を獲得した後、四加行を修習し、第四加行の世第一法以前の観行はすべて勝解作意と呼ばれます。つまり、現量で実証する前の思考参究は、すべて法に対する勝解と領悟と呼ぶべきであり、勝解した後にこそ、現量観察によって得ることができ、実証と名づけられるのです。実証は初果位以上にあり、勝解は初果向あるいは四加行の世第一法位の中にあり、四加行の後にこそ実証して見道することができます。ですから、自己の智慧を如実に観察し、それが現量観察智なのか、勝解なのか、それとも臆測推理分析などなのかを、自己の智慧の階層を了解してこそ、次の段階の修行を計画することがよいのです。
現観四智を具備する行者は、従来より他のところから法を得、法を知ることはなく、他人の言うことを究竟の帰依処とはせず、すべて自己の現量観察によって実証することに依拠しています。法を見、法を得るということは、自分自身の力で参究観行するよりほかなく、他人は手伝うことができず、他人が指し示し教えることは、自己の現量観行の代わりにはなりません。疑惑は自己が観行を通じて解決する必要があり、他人の言うことは自己の内心の疑惑を解除することができません。それは親しく見証したものではないからです。ある人はあれこれと方法を講じて修行の成果を搾取しようとしますが、仏法は誰が修めば誰が得るものであり、搾取してきたものは、自分のものに変えることもできず、見道の智慧を獲得することもできません。瑜伽師地論が指針としてあり、法の道理はますます明らかになり、証果明心のことについては、誰が承服しなくても仕方なく、さもなければ行って弥勒菩薩に会って話してみるがよいのです。
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