証果は戒・定・慧が結びついた結果であり、煩悩を断った後の産物でもある。そして慧は禅定なしには得られない。証果を得て初めて解脱が可能となる。解脱とは煩悩の束縛からの解放を意味するが、煩悩を断つことは智慧の成就であると同時に、何よりも禅定の結果である。禅定がなければ煩悩を断つことはできず、証果も得られない。
預流果(初果)と一来果(二果)には未到地定が必要である。未到地定がなければ預流向(初果向)にもなれない。預流果は見道で断つべき煩悩(欲界で最も粗重な下品の煩悩)を断つが、これには未到地定において断じなければならない。一来果は修道で断つべき煩悩(欲界の中品・上品の煩悩)を断つ必要があり、これも未到地定において断じなければならない。預流果と一来果の者が命終した後は欲界天に生まれるのみで、色界天や無色界天には生まれない。なぜなら色界の初禅定を得ていないからである。
一来果は預流果の基礎の上で引き続き四聖諦の理を観行しなければならない。現観は未到地定なしには成り立たない。そうでなければ現観は不可能で、ただ意識による思惟分析に頼ることになり、現量の観察智を得られない。そのため三果(不還果)を証得することも、初禅定を得ることもできない。不還果(三果)は欲界の一切の煩悩を断つとともに、色界の煩悩も少なくとも一品は断じて心解脱の聖者となるため、最低限、色界の初禅定がなければならない。不還果の者が命終すれば色界の五不還天に生まれるか、あるいは中有身において一切の煩悩を断じ尽くして四果(阿羅漢果)を証得し、無余涅槃に入る。もし不還果の者に色界定がなければ、どうして五不還天に生まれることができようか。どうして煩悩を断じ尽くせようか。
禅定が具わっていなければ、それに対応する煩悩を断じることはできない。色界定がなければ欲界と色界の煩悩惑を断じることはできず、未到地定がなければ欲界の煩悩を断じることはできない。そうなれば四聖諦の理は解脱道の依り所とはならない。煩悩を断たずに菩提を証できると言う人々は、まさに禅定がないがゆえに、内なる煩悩を降伏できず、意識の解釈が優れているように見えても実証の智慧がなく、煩悩の束縛から逃れられないため、六道輪廻から離脱できないのである。仏法を学びながら禅定を修めず、ひたすら臆測に頼るのは、すべて戯論に過ぎず、生死を解決することはできない。
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