衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2022年09月19日    月曜日     第1開示 合計3678開示

三昧空に近接した状態

問:私は毎朝目が覚めると頭の中が空っぽで、同時に六字の念仏の声が聞こえます。何をしていても頭の中の念仏の声が聞こえ、他のことを考えると疲れてしまいます。食事量は少なく、話したくなくなり、家族は私が認知症のような状態だと言います。何をしていても頭の中は空っぽで、家族や何事を見ても自分とは関係がないように感じます。父のことを思い出すと、彼の身体の白骨の姿を思い浮かべ、誰を見ても白骨が動いているように見え、自分自身を見ても同じです。今では座禅中も頭の中は真っ白で、物事を考えると疲れ、目を開けているだけで疲れ、念仏も唱えられず、頭の中の念仏の声を聞くだけです。私のこの状態に問題はありますか?

答:これは心が空(くう)になった状態であり、修行上は全く問題ありません。実修後に現れる良い現象です。頭が空っぽになるのは、心が非常に清浄になっている証拠であり、長期間の座禅の結果、四念処(しねんじょ)の観行(かんぎょう)、白骨観(はっこつかん)の修行、念仏の成果です。悟りを開く前は心は非常に空っぽになります。禅定(ぜんじょう)が深まると、身体もだるくなり、何事もしたくなくなり、心も頭も空っぽで、あらゆる物事に興味が持てず、あらゆる物事や人に対して見知らぬ感覚や空虚感を抱きます。あなたが描写したこれらの状態は全て修行の良い現象であり、悟りに至る前の三昧(さんまい)に近い状態です。これはあなたの修行が非常に精進(しょうじん)している証拠であり、この境地に至るのは非常に容易なことではありません。このまま継続してください。

仏法を学ぶ者が真に努力し、成果が現れる時、その状態は世俗の人とは完全に逆になります。世俗の人は自分たちの身心の状態を正常だと考えますが、実はそれは煩悩(ぼんのう)の習慣に過ぎません。私たちの身心の状態が彼らと異なるのは正しいことであり、同じであれば間違いです。彼らはあなたを理解できず、説明しても理解しないでしょうから、説明せずに自分で引き続き努力すれば良いのです。もし修行者の心が常に空っぽでなく、何を見ても良く見え、非常に興味を持ち、何を見ても親しみを感じるなら、修行の功夫(くふう)はまだ不十分です。あなたの修行は非常に努力しており、しかも成果が現れています。何を見ても見知らぬ感覚で、自分から遠く離れているように感じるのは正しいことです。これを「離(り)」と言います。煩悩や世俗の法(ほう)から遠く離れる「離」です。離れた後に初めて悟りを開き、空(くう)と無我(むが)を証得(しょうとく)できるのです。

今あなたが全てが空(くう)だと感じるのは良い現象です。定力(じょうりき)がさらに増し、慧力(えりき)がさらに強まれば、本当に空(くう)を体得できる可能性があります。他人は全くあなたを理解できず、あなたを馬鹿だと思うでしょう。私たち仏法を学ぶ者は、よく学べば馬鹿になるのです。馬鹿でなければ世俗の人と同じであり、それは学びが不十分だということです。あなたが常に父の身体の白骨の状態を思い浮かべるのは、あなたに初歩的な白骨観(はっこつかん)の境地があること、あるいは四念処(しねんじょ)の修行にある程度の成果があったことを示しており、座禅による観行(かんぎょう)に効果が現れているのです。私たちは世俗の相(そう)を見ず、世俗の相から離れた相、それを真実の相(しんそう)と言います。真実とは、衆生(しゅじょう)は実は白骨であり、白骨も最後には空(くう)に帰し、肉体も全て空(くう)であり、全ての現象(万法)も空(くう)であり、人や物事の道理も全て空(くう)であるということです。これで正しく、道を正しく歩んでいます。あなたの修行の効果は非常に良好であり、現在の状態からすると、三昧(さんまい)を証得(しょうとく)するのもそう遠くなく、空(くう)と無我(むが)を証得するのも遠くありません。どのような三昧が現れても、全て空(くう)に関わるものです。引き続き努力してください。

——生如法師の開示
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