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日常法話

2022年09月23日    金曜日     第1開示 合計3680開示

臨命終時において如何にして心を乱さず極楽浄土に往生することができるのでしょうか。

仏説阿弥陀経原文:もし善男子・善女人ありて、阿弥陀仏の説を聞き、名号を執持し、一日であれ、二日であれ、三日であれ、四日であれ、五日であれ、六日であれ、七日であれ、一心に乱れず。その人、命終わらんとする時に臨みて、阿弥陀仏と諸の聖衆、現在してその前にあらわる。この人は終わる時に、心顛倒せず、すなわち往生を得て阿弥陀仏の極楽国土に至る。

釈:もし善男子や善女人が、西方極楽世界に阿弥陀仏がおられ、衆生を導いて往生させてくださることを聞き、ただひたすらに阿弥陀仏の名号を称え、かつ一日、あるいは二日、あるいは三日、あるいは四日、あるいは五日、あるいは六日、あるいは七日というように、そのような期間中に絶え間なく念仏を続け、一心に乱れることなく修行するならば、この人が臨終を迎えるとき、阿弥陀仏と極楽世界の諸大菩薩および阿羅漢などの聖なる大衆が、この人の前に現れるであろう。この人がまさに命を終えようとするとき、心が乱れず倒れないならば、ただちに阿弥陀仏と諸聖衆に随って極楽世界へ往生することができる。

前段の文:(念仏七日)一心不乱、その人臨命終時に、阿弥陀仏と諸聖衆、現在してその前にあらわる。後段の文:この人終わる時に、心顛倒せず、すなわち往生を得て阿弥陀仏の極楽国土に至る。この二つの文の意味には違いがあり、前段の文はただ臨終の際に仏と諸聖衆が念仏者の前に現れることを示しているが、この念仏者が必ず往生できることを意味するわけではない。なぜなら後段の文には、さらに「心不顛倒」という往生の条件が追加されているからである。後段の文は前段の文を補足しており、臨終の際に心が乱れず倒れないことで初めて往生できることを示している。前段の文は阿弥陀仏と諸聖衆が念仏者のもとへ迎えに来る準備をしているが、まだ連れ去ってはいない状態を表し、後段の文はこの人が心乱れず倒れない時に初めて迎え取られることを示している。もし心が乱れ倒れたならば、迎え取られることはない。

たとえ阿弥陀仏と諸聖衆がこの人の前に現れても、もしこの人が臨終の際に心が乱れ倒れてしまったならば、結果として往生することはできない。平生の念仏が一心不乱の境地に達していたとしても、臨終の往生を保証するものではない。もし業障が現れ、心が乱れ倒れたならば、阿弥陀仏や極楽世界と感応道交できず、極楽世界へ行くことは叶わない。したがって極楽世界へ往生することは、行きたいと思えばすぐに成就するものではなく、膨大な福徳が必要なだけでなく、業障を消除し、清浄な大願を持ち、願力が業力を上回らなければならない。さらに深い信心と至誠の心も必要である。

一心不乱は心不顛倒と同義ではない。往生の時を予知できたとしても必ず往生できるとは限らず、阿弥陀仏が迎えに来られたとしても必ず連れていかれるとは限らない。往生の可否の根本は、往生を目指す者が臨終の際に心が乱れず倒れているか否かにある。臨終の最後の一念は極めて重要であり、この一念の前まで一心不乱で心乱れず倒れていても、最後の一念を保持できなければどうにもならない。この最後の一念が来世の趣向を決定するのである。千日の兵を練るも用いるは一時、生死の試練は最後の一念にかかっている。もしこれまでに念仏によって一心不乱の境地に至っていなければ、最後の一念はほとんど乱れ倒れ、自らの意思ではどうにもならず、業力が主導権を握る。しかしこの時に願力が業力を上回っていれば状況は一変し、願力によって来世の趣向が導かれる。

一心不乱は主に定(サマーディ)を本質とし、わずかに慧(プラジュニャー)を含む。心不顛倒は主に慧を本質とし、わずかに定を含む。定と慧がともに具足し、どちらも欠けてはならず、初めて往生が可能となる。心乱れず倒れない智慧を得るためには、どのように修行すべきか。浄土を修める者が往生しにくいのは、単に修行の功夫が難しいからだけではなく、主に智慧が不足しているためである。どの智慧が不足しているのか。それは世間の苦に対する智慧の不足である。ゆえに平生に業障が消除されず、臨終に心が乱れ倒れてしまうのである。もし平生に苦聖諦を修め、娑婆の苦を知り、五蘊の世間に貪着せず、真心から往生を願い発し、すべての縁を放下できてこそ、一心不乱を得た後に初めて往生の望みが持てる。

一心不乱を得た後も、心はなお乱れ倒れることがあり得る。乱れ倒れるとはどのような心の状態か。乱れず倒れないとはどのような心の状態か。阿弥陀仏が面前に現れて迎えに来られた時、あるいは臨終の際には、一心に阿弥陀仏を念じ、一心に極楽世界を思い、仏の功徳と相好を念じ続けるべきである。そうすることで初めて阿弥陀仏や極楽世界と感応道交でき、これが乱れず倒れない状態である。

もしこの時に突然、家族や親族のことを思い、五欲六塵を思い、娑婆世界の良さを思い出し、心にほんのわずかでも未練や執着が生じれば、もはや阿弥陀仏と一心ではなくなり、少し三心二意となってしまう。これが乱れ倒れた状態である。ある者は臨終の際に「私は菩薩である。菩薩は常に衆生を度すべきである。今、私が極楽世界へ行くことは、まさに衆生を度す好機である。私は大衆に私の往生の殊勝な様子をよく見せ、彼らの往生への信心を増すべきだ」と考えてしまう。このように考えた瞬間、心はすでに乱れており、一心不乱ではなくなり、心は乱れ倒れ、往生は叶わなくなる。

往生を成就させるには、平生の修行を十分に積み重ね、道理を明らかにしなければならない。五蘊の世間が苦・空・無常・無我である理を明らかにし、道理を悟った後に業障を消除し、自らの苦を知るとともに衆生の苦をも知る。自らの苦から解脱したいと願うと同時に、衆生の苦からも解脱させたいと願うことで、初めて真実誠実な心、至誠の心が生じ、菩薩の清浄なる大願を発起できる。そうして初めて阿弥陀仏や諸聖衆と感応道交し、極楽世界と感応道交でき、臨終に心乱れず倒れることなく、極楽世界へ往生できるのである。

——生如法師の開示
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