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煩悩无尽誓願断
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日常法話

2019年02月02日    土曜日     第2開示 合計1228開示

毘婆尸仏伝法偈

原文:身は無相の中より生を受け、幻の如く諸の形象を現ず。幻人の心識は本来無く、罪福皆空にして住する所無し。

釈:第一句「身は無相の中より生を受く」とは、色身はすなわち色陰であり、衆生の心識を遮って衆生に妄りを真と認めさせる。衆生は常にこの色身を我であると信じ、実在のものだと思い込んでいる。無相とは阿頼耶識、第八識、如来蔵を指し、これが真実の心である。形も相もなく、色声香味触法の相がなく、三界におけるいかなる相も存在しない。虚空の如くでありながら虚空ではなく、虚空は無為の法であり仮の相である。この心は真実に存在し、実相であり、真実の体性と作用を有する。

真実の心は万法を生じ、色身を含む一切を生み出す。色身はこの心より生を受ける。衆生は我執が絶えず、意根が自己に執着するため、死後に中陰身が生じ、縁ある父母に出遇うと、意根は第八識を伴って胎に投じ、名色(受精卵)を形成する。第八識は地水火風の四大種子を有しており、母胎中の四大元素と接触して受精卵を生じ変わる。七日ごとに変化し、頭・四肢・眼・耳・鼻・舌・身が成長し、五ヶ月頃に識心が現れて生存環境を分別する。六根が円満すると、第八識は業風を吹かせて頭を下にし母胎を出る。第八識はさらに四大元素を吸収して嬰児を児童・少年・青年・老年へと変え、最後には死亡する。故に色身は第八識より変生したものであり、第八識は無相でありながら一切の相を現じ出すのである。

第二句「幻の如く諸の形象を現ず」とは、第八識が現じ出す色身はあたかも幻術が作り出したかのようである。無から受精卵へ、さらに成人の大きさへ、あるいは象や龍、迦楼羅(かるら)のような巨大な身軀までも現じ出す。魔術師が突然虚空に美女を現じ出す如く、また画家が白い画布に山水人物を自由に描く如く、あるいは空中の白雲が集散して猫や狗、花を形作る如し。これらの幻化されたものは空より来たり空に去り、到底捉えられるものではなく、如何に執着しても消え去る。

第三句「幻人の心識は本来無し」とは、衆生は受精卵の段階では六つの識心がなく分別性を持たない。五ヶ月頃に第六意識心が生じ、続いて耳識・鼻識・舌識・身識が現れ、出生七日後に眼識が分別できるようになる。これらの分別する識心は刹那刹那に生滅して実体がなく、一刹那に八万一千の種子が生滅して初めて衆生は六塵を分別できる。各々の種子は阿頼耶識より送出され、途中で一つでも種子が送出されなければ識心の分別性は存在しなくなる。例えば灯火が光るには電流が必要であり、電流は電子によって形成される。前の電子が生じては滅し、次の電子が直ちに生じては滅す。無数の電子が連続して電流となり、電球を通じて光を放つ。

心識の種子はこの電子の如くである。水流の形成もまた一滴一滴の水が連続して生じる。心識の種子はその水滴の如し。水流はポンプにより導かれ、電子は発電機より出力される。阿頼耶識は発電機やポンプの如く、一つの識種また一つの識種を送出し、一刹那に八万一千の識種が前後連続して識心を形成する。識心の活動があって初めて分別の機能が生じる。もし阿頼耶識が離れて作用しなければ、識心は生じず分別性もなくなり、身体は単なる木塊となる。

第四句「罪福皆空にして住する所無し」とは、罪業と福業は妄心によって造られ、妄心が身行・口行・意行を造作する際、善悪無記を問わず阿頼耶識は全てを記載・収蔵する。来世で業縁が成熟すると、阿頼耶識は業種を送出し衆生は報いを受ける。しかし報いを受ける時の五蘊は前世とは異なり変化している。業を造る者も報いを受ける者も生滅する幻妄の実体なき存在であり、罪業・福業もまた生滅する幻妄である。福報は享受すれば消え、罪業は受報を終えるか懺悔すれば消滅する。これらは全て生滅法・無常法である。

例えば妄語業は、造作される前は何処にも存在せず、造作後は言語が消え業行は消滅する。消滅後も何処へも行かない。しかし行為の全過程は阿頼耶識が完全に記載する。妄語という法は虚妄である。一体誰が妄語を語るのか。身体は妄語を語らず、口は語らず、舌は語らない。もしそうでなければ死人も妄語を語ることになる。舌識心・意識心は妄語を語らず、かつ念念生滅である。意根も言葉を話せず妄語はできない。阿頼耶識には口も舌もなく、まして妄語などできない。結局、妄語を語る者など存在せず、妄語業は虚妄なのである。

衆生は阿頼耶識が幻化したものであり、この幻化された仮の存在は、ロボットや操り人形の如く業行を造作しても虚妄である。彼らに罪を定めることはできず、罪を定めても彼らは受け入れない。幻化された衆生もまた同様である。罪福の虚妄性は多くの事実によって証明される。阿闍世王(あじゃせおう)の事例を挙げれば、阿闍世王は父王を殺害し業報が現前すると世尊に謁見した。世尊は阿闍世王に「父」という法の虚妄を分析され、父殺しという法も虚妄であると説かれた。阿闍世王がこれを理解すると罪業は消滅し、命終後は無間地獄に堕ちることなく、極楽浄土に往生した。これにより罪業・福業の虚妄性が明らかである。

また例えば、阿羅漢の初果を証得するか、もしくは明心(大乗の悟り)を得た者は、無始劫以来の三悪道の罪業が消滅し、未来永劫に三悪道で報いを受けることがなく、ただ人間界で苦を受けるのみとなる。万法は罪福業を含めて全て生滅・無常・空幻である。この道理を深く剖析すれば大乗の無生の理を悟り、実義菩薩となるのである。

——生如法師の開示
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