時間とは何の法か。物質のような実有の法か。時間は物質的な色法ではなく、心法でもない。色でも心でもなく、心と相応しない行法である。なぜ時間は心と相応しないのか。心が現じた法は必ず心と相応し、三能変識が和合して変造した法は三能変識と相応し、生滅変異増減し、心に随って変化する。しかし時間という仮法は三能変識が変造したものではなく、心法・色法・心所法が和合して顕れた仮法である。ゆえに心に随って変化せず、生ずることも滅することもなく、延長も短縮もできず、得ることも失うこともない。時間は物質のような実有の法ではない。物質色法は四大種子によって形成された実法であるが、時間は何らの種子によっても形成されず、物質の相対的変化によって顕れたものである。ゆえに非実有の法であり、仮法である。亀の毛や兎の角の如く、見えず触れず捉えられない。
時間の作用とは何か。時間には実質的な作用がなく、仮法は用いることができない。時間は仮法であり用途がないため、互いに贈与したり奪い合ったりすることもできない。人が言う「あなたが私の時間を占有した」「私の時間を無駄にした」などは、実は全く存在しない事柄である。誰も時間を占有したり無駄にしたりできない。例えば、今食事をすべき時にあなたが訪ねて来て、私はあなたと話し相手をせざるを得ず、あなたの用件を処理したため食事ができなかった。これに時間が関与しているか。食事であれ会話であれ用件処理であれ、その中に時間という法は存在しない。始めから終わりまで人・事・物の運行であり、これら三者が和合して運行する中で、この過程の長短が時間を顕すのである。
心法と色法の運行過程がその長短を顕すことを時間と呼ぶ。物質変化の過程の長短を時間と呼ぶ。例えば嬰児が生まれて一ヶ月後を満月と呼ぶが、一ヶ月とは時間ではなく、実は嬰児の成長発育の一過程に過ぎず、時間という説は存在しない。嬰児が一年、十年、百年成長するのも、一秒、一分、一時間、一日というのも、全て嬰児の成長過程を指すのであって、時間という法は存在せず、時間は受動的に顕れるのである。人が「今時間が止まったようだ」「動かなくなった」と言う時、実は心が動かなくなり、分別しなくなったのであり、時間という説は存在しない。時間が動くか止まるかを論じるのは戯論であり、亀の毛や兎の角についてあれこれ論じるのと同じ戯論である。
我々が時間を見る時、時計を見る。時計の秒針・分針・時針が組み合わさって時間を表示するが、これらの針がなくても時間はなく、あっても同様に時間はない。時間の根本は天空の太陽の運行位置によって顕される。太陽がなければ時間はなく、太陽があっても同様に時間はない。太陽が地平線から昇る時、人類はこの状態を一日の朝と定義し、同時に気温が比較的低いため、朝日が昇るこの状態を朝と呼ぶ。太陽が頭上に昇れば一日の昼と定義し、太陽が地平線下に沈めば一日の夜と定義する。こうして太陽が一周運行するのを人類は一日と定義する。さらに太陽運行周期を数え、十日半月、一ヶ月から十二月、一年二年などと定義する。全ての時間の長短は物質色法に依って初めて顕れるのであり、時間という実体ある法は存在しない。
人から用件を頼まれた時「時間がない」と言うが、実際には誰も時間を所有しておらず、ただ各人が自らのすべき事柄を持ち、他の事ができない状態を仮に「時間がない」と名付けるのである。何事を行うにも心法と色法に関わるが、心法は識種子によって形成された生滅変異の法であり、これも実有ではない。時間よりは幾分実在感があるが。物質色法も四大種子によって形成された法であり、同様に実有ではない。ただ時間よりは幾分実在感があるに過ぎない。心法も色法も虚妄の法であり、これらが和合して顕す時間は更に虚妄の法である。
人が自らの生きる時間を長くしたいと願う時、それは時間を引き延ばすのではなく、自らの色身五陰の運行過程を長くするのである。人が生きる時間が短いのは時間を短縮したのではなく、五陰身の運行過程が短いのである。時間という相も法も存在しない。人がタイムスケジュールを好んで作るが、実は時間表ではなく時間上の調整ではなく、人事物を処理する工程表であり、人事物の調整流程である。生命に時間相がなくなれば、心はどれほどの束縛から解脱できるか。かつて時間の観念があったため、自らにどれほどの制約を課し、どれほどの執着を増したか。
譬えば夢を見るが如し。一大夢、長き夢の中で一生を生き、幾劫もの時間を生き、喜怒哀楽、悲歡離合、流離転徙する。目覚めた時、ただの夢だったと気付く。何事も起こらず、誰も現れず、何物も得ず失わず、自らは無事である。夢の中に人事物も時間もなく、全てが虚妄である。目覚めれば夢から解脱する。同様に、一切衆生は生死の大夢に流離し、苦悩に満ちている。この生死の大夢は夜見る夢と同様で、真実の人事物も時間空間もなく、何も存在せず虚妄である。目覚めた時、自らが得るもなく失うもなく、掛けるも礙るもなく、了然として事なきを発見する。この時大解脱し、究竟して仏となる。生死の大夢から目覚めた時、衆生の成仏は刹那の間にあり、三大阿僧祇劫の時間的広がりはないのである。
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