衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2019年02月03日    日曜日     第2開示 合計1230開示

意根の主体性

もし末那識が水を飲みたいと思うなら、六識が現れて湯を沸かし水を注ぎお茶を淹れ、口に運ぶ。末那識が水を飲みたくないなら、六識はこれら一切の行為を行わない。意識は常に末那識より重要ではなく、永遠に主人となることはできない。なぜなら意識は生み出された法であり、末那識がその出生を決定する従属的な存在で、末那識に奉仕するものであり、なおかつ十分に奉仕しなければならないからである。奉仕が不十分であれば、末那識は不快に感じ、時には情緒的な反応を示すこともある。末那識が実際に情緒的な反応を示す時、意識は時として不可解に感じることがある。意識は末那識よりも理性的であるが、末那識の情緒性は意識より深刻である。末那識が特定の音声を聞きたいと思うなら、意識は末那識の命令に従いその音声を認識しに来なければならない。末那識が六識を出現させたいと思えば、六識は直ちに現れる。末那識が六識の出現を望まなければ、六識は現れない。末那識が六識にどのように造作(行為)を行わせたいかによって、六識はその通りに造作しなければならない。

仏法の学習と修証において、もし末那識に力を注がず、意識心だけに力を注ぐならば、意識心上で無明を破ることに意味はなく、力を尽くせば意識は滅する。もし意識心上でのみ証果を得ようとするなら、証果後に滅し、残された末那識は依然として無明に覆われたままであるため、我々は生死の輪廻を続けることになる。なぜなら生死の問題は末那識にあり、十二因縁の鍵も末那識にあるからである。意識を修することは最終的に末那識に影響を与え変化させるためであり、意識は拡声器、参謀、助手のようなもので、末那識が主意を決め対策を考えるのを助け、最終的に末那識の無明を転換し、末那識を変化させるのである。末那識が変化した後は、意識はもはや末那識を染める必要がなく、両者は再び和合して善法を造作する。

意識は従属的な地位にあり、末那識はそれを使うことも使わないこともできる。使わない時、意識は何ものでもない。古来より多くの人々が意識心上で巡り続けてきたが、ついにその門を得ることはなかった。我々は悟りを開きたいと常に願うが、末那識にまで修が至らなければ悟りを開くことはできない。仏法がどれほど優れていても、末那識に認められなければならない。一旦末那識が認めれば、自ずと規範が生まれ、六識に選択的に業行を造作させ、無意味な事柄はもはや造作したくなくなる。もし末那識が全てが無意味であると感じれば、六識は造作を減らすだけでなく、ついには出生しなくなり、最後には末那識自体もついに滅し、涅槃に入るのである。

——生如法師の開示
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