意根が水を飲みたければ、六識は現れて湯を沸かし水を注ぎ茶を淹れ、口に運ぶ。意根が水を飲む気がなければ、六識はこれらの行為を一切行わない。意識は永遠に意根に及ばず、決して主導権を握れない。なぜなら意識は生み出された法であり、意根の決定によって存在の可否が定まり、従属的な立場で意根に奉仕する存在だからである。しかも意根を十分に満足させねばならない。奉仕が不十分であれば意根は不快を覚え、時に感情を乱す。意根が真に感情を乱した時、意識は不可解さを感じる場合がある。意識は意根より理性的だが、意根の感情的傾向はより深刻である。意根が特定の音声を聴きたければ、意識は意根の命令に従いその音声を分別せねばならない。意根が六識の出現を望めば、六識は即座に現れる。意根が六識の出現を望まなければ、六識は現れない。意根が六識に特定の行為を求めれば、六識はその通りに造作する。
仏道修行において意根に力を注がず、ただ意識心のみに努力を傾けるならば、意識心において無明を破ることに意味はなく、努力が尽きれば意識は滅する。悟りの証得を意識心のみで成せば、証得後には滅し、残された意根は依然として無明に覆われ、我々は生死の輪廻を続ける。生死の問題は意根にあり、十二因縁の要は意根にある。意識を修することは最終的に意根に影響を与え変化させるためであり、意識は拡声器や参謀、助手のような存在で、意根が方策を決めるのを助け、最終的に意根の無明を転換させる。意根が変化した後は、意識はもはや意根を染める必要がなく、両者は再び和合して善法を造作する。
意識は従属的な立場にあり、意根はこれを活用することも放棄することもできる。放棄されれば意識は無に等しい。古来より多くの修行者が意識心の次元で輪転し、ついに門戸を得ずに終わった。悟りを開こうと望みながら、意根に至らぬ修行では悟りは開けない。仏法が如何に優れていようと、意根の認証を得ねばならない。一旦意根が認めれば、自ずと規律が生じ、六識に業行を造作させる際に選択的になり、無意味な行為を繰り返さなくなる。意根が全てを無意味と感じるに至れば、六識は造作を減らすのみならず遂には現れず、最終的に意根自身も滅して涅槃に入る。
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