衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2019年02月06日    水曜日     第3開示 合計1235開示

仏道成就の証は心空です

もし一切の法が実在すると考えるならば、心は空(くう)になれず、これが無明である。一つの法を実在と見なせば、その法はあなたを障害し、心の塵となり、この思想観念が無明惑である。成仏を好むことすら、成仏という法を実在と見なせば、これも依然として無明である。全ての無明が破尽され、一切を空じ、心中に一法も留めない時、初めて如来蔵と同等となり、成仏できる。修行の最後に成仏を願う心があり、心中に成仏という法があれば、成仏することはできない。内心において万法皆空、無相・無願・無作(むそう・むがん・むさ)に至ってこそ、真の成就である。

八地菩薩以前は心に有為(うい)の成分が多く、八地菩薩に至って心は無為空(むいくう)となる。内心が真に無為無所作(むいむしょさ)となり、三宝を供養し、衆生のため仏教のために事業を行う時も心が空であるからこそ、仏は成仏の授記(じゅき)を与える。心が空でない時、七地菩薩以前は、有為の善法を多く造作(ぞうさ)し、精進して仏・法・僧を供養しても、仏は授記を与えない。なぜなら心に依然として有為が空じておらず、如来蔵の無為(むい)に相応せず、無明がまだ重いからである。たとえ生生世世(しょうしょうせぜ)にわたり仏を供養し、三千大千世界の珠宝を全て三宝に供養しても、仏は授記を与えず、ましてや世俗の有為法を造作することなど論外である。

しかしこれらの有為法を行うことで自らの福徳を増し、成仏の智慧を得る資糧(しりょう)が増えるため、智慧の増長が可能となる。ゆえに「一切法皆空」だからといって、一切の福徳を修めないのは誤りである。そうすれば心は依然として空じず、依然として我(が)が存在する。福徳の支えがなければ、真実の空の智慧は現れない。たとえある法が空であると理解しても、業(ごう)として証得(しょうとく)できなければ真の空ではなく、行為造作の上では依然として空ではない。

修行とは一切法空を認識し証得することである以上、物事を行う際に「多く行うほど功徳がある」と考えてはならない。衆生を度(ど)す際に「摂受(せつじゅ)する衆生が多いほど功徳がある」と考えてもいけない。実際には、物事を行い衆生を度すという菩薩事業を通じて、一方で自らの福徳を増し、一方で自らの慈悲心を増長させ、一方で絶えず自我を消滅させ、我執の心を滅し、自心をますます空にし、ますます看破(かんぱ)し、ますます相(そう)に執着(しゅうじゃく)しないようにするのである。心がある程度空に至って初めて真の成就であり、大いなる作為(さくい)が可能となる。

功徳の多寡は行う事柄の量に必ずしも比例せず、度す衆生の数にも必ずしも比例しない。鍵は、これらの行いの中で心がどの程度空じ、どの程度の無為に達したかである。ゆえに真の修行者は、日夜あれこれ考えて「どれだけ多くの信者を摂受・影響させられるか」と悩まず、「それでこそ最大の成就だ」とも考えない。この過程における一切の法に対する認識の程度、心の空の程度こそが、仏法を証得した程度と深さを真に示すのである。これを基準として自らの功徳を量り、自らの菩薩の果位(かい)を判断すべきである。ゆえに相を見て相に執着してはならない。相において心がますます空じ、ますます無為であればあるほど、法を証得する程度は深まり、果位は高くなる。相を通じてその中の用心(ようじん)を観察すべきである。ゆえに修行において何らかの相に執着し、何らかの相を掴み取ってはならない。

たとえ一年に百回の法会を開き、十万百万の衆生を摂受し、百冊の本を書き、あるいは一年に三宝に一億十億と供養しても、これらは全て有為法である。これによって内心に執着と傲慢(ごうまん)を生じるのは、すなわち我相(がそう)である。相に執着すればするほど心は空じず、果位と証量(しょうりょう)は低くなる。この理を理解しないと、有為法において狂ったように造作と競争をし、「私は誰よりも強い、誰よりもできる、私が一番、私が唯一」となる。この一切一切の所謂(いわゆる)成就は、全て相の上に落ち、全てが有為であり、全てが執着であり、内心は全く空ではない。これは生死の業(ごう)であり、造作すればするほど心は空じず、ますます無明となり、ますます解脱(げだつ)できない。

ある人々の行いは量こそ多くないが、空の智慧を持ち、一切の事柄の本質を見抜き、現象に惑わされず、現象に陥って自らを救えなくなることはない。自らが深い空慧(くうえ)を持てば、自然と周囲の人々も心を空にして相に執着しなくなる。こうして衆生を度す質は高くなる。もし菩薩の心が空でなければ、従って学ぶ弟子の心がどうして空になれようか。菩薩が相に執着すれば、後ろの者はさらに相に執着し、これでは道に背き、道に相応しない。ゆえに道を修めるとは相を破り、自心の無明を破るのである。相に執着するのは法執(ほっしゅう)であり、法執もまた生死の根源である。

法執の範囲は広大である。凡(すべ)て執着するものは全て法執であり、五陰身(ごおんしん)に対する人我執(にんがしゅう)を含む。五陰身以外のより微細で広範な法に対し執着するものも全て法執である。どうすれば法執を破れるか? まず如来蔵を証得し、唯識種智(ゆいしきしゅち)を修め出さねばならない。そして一切の法が実在するか否か、自らの自在性・自主性があるか否かを観察する。深細な観察を通じて、一切の法は如来蔵が何らかの縁(えん)によって生じたものであり、全てが生滅幻化(しょうめつげんけ)であり、自らの実在性・自主性・自在性を持たず、実質は全て如来蔵の機能作用であり、一真法界(いっしんほうかい)の中の一法であり、全て如来蔵が運作しているもので、全く執着すべきものはなく、掴み取ることもできないと発見する。こうして心は緩み、もはや執取しなくなり、法執は破れる。

世俗界には実質的な有為相(ういそう)はない。それでは何を造作すべきか? 心が究竟(くっきょう)に空になれば、成仏する。各法に対する無明の執取性が滅すれば、貪着(とんじゃく)執着すべきものは何もなくなる。法執を破る道程は非常に長い。初地(しょじ)から成仏まで、二大阿僧祇劫(にだいあそうぎこう)という長い道のりを歩まねばならない。一大阿僧祇劫で我執を破り、二大阿僧祇劫で法執を破り続ける。我見(がけん)を断つだけでも長い道のりが必要であり、修行の難しさ、意根(いこん)の無明と執着の深さが窺(うかが)える。

全ての執着、我執と法執は意根の執着である。意根がこのように執着するため、意根の執着を破るのである。まず意根の我見と法見(ほうけん)を破り、意根の思想の纏縛(てんばく)を破らねばならない。すなわち意根の我見と法見を断つのである。一切の法を実在とする知見は、少しずつ破らねばならず、その後で執着が減少し滅除される。執着が滅尽し、無明が断尽し、心が完全に空になれば、成仏する。

修行の成就の指標は、心の空の程度、無明の知見がどの程度破られたか、どれだけ破られたかにある。一切の法の法相(ほうそう)を空と見なし、それが如何に空であり無我であり不自在であり不実在であり生滅変異するかを観察すれば、心は空になる。そうすれば無意味な有為法を造作しようとは思わず、内心に相なく願いなく作(さ)もなく、如来蔵と一致する。それが如来仏である。

——生如法師の開示
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