衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2019年02月08日    金曜日     第1開示 合計1241開示

誹謗正法による往生と解脱ができない理由

無量寿経第十八願(極楽浄土往生の条件):我仏となるを得ば、十方の衆生、至心に信楽して、我が国に生まれんと欲し、乃至十念せん。もし生まれずば、正覚を取らじ。ただ五逆と正法を誹謗するを除く。

五逆罪とは、仏陀の身より血を出すこと、阿羅漢を殺すこと、和合僧を破ること、父を殺すこと、母を殺すことである。正法とは、衆生を解脱させ得る正しい法義であり、大乗と小乗の法を含む。

なぜ五逆の重罪を犯すと極楽浄土に往生できず、証果も明心も解脱もできないのか。なぜ正法を誹謗すると証果も明心も解脱もできないのか。

まず仏陀の身より血を出すことについて。仏陀の業種は完全に清浄であり、いかなる悪業・悪縁も感召せず、悪報も存在しない。ゆえにいかなる衆生も仏陀を殺害できず、また仏陀の色身に傷つけて血液を流出させることもできない。ではなぜ「仏身より血を出す」という説があるのか。仏陀の血脉とは法脈、すなわち仏法の流伝である。仏身より血を出すとは、法脈を断絶させ、正常な伝播を不能にすることである。仏法は衆生を生死から離脱させ解脱を得させるものであり、法脈を断つことは極めて重大な罪である。この悪業の果報は無間地獄の業であり、この悪業を造った者は解脱を得ず、生死の苦から離れられない。

阿羅漢とは一切の煩悩を断じた解脱の聖者であり、その解脱の徳により人天の供養を受けるに値する(応供)。八地以上の菩薩の解脱証量は四果の大阿羅漢に相当し、初地から七地の菩薩の解脱証量は三果の聖人に相当する。彼らは一縷の惑業を残し、解脱果を取らず解脱の正位に入らず、無余涅槃に入らぬよう保証する。阿羅漢を尊重・供養する果報は煩悩を断除し解脱を得て生死を解除することである。逆に阿羅漢を殺害すれば煩悩を解脱できず、解脱を得られず、生死を離脱できず、生死の苦を離れる一切の解脱の道が閉塞する。ゆえに極楽浄土に往生できず、証果も明心見性もできない。

和合僧団について。僧:サンスクリット語Samgha、詳しくは僧伽(サンガ)といい、出家修行する男性仏教徒を指す。衆・大衆・団契の意であり、広義には女性(尼僧)も含む。男女の出家衆を総称して僧尼という。僧伽とは四人以上の仏法に依る出家者で組織された宗教団体である。出家の身分と資格がなければ僧尼に属さず、人数が多くとも団体を構成しない。聖なる僧伽(聖義僧)については、真に証果し真に明心見性した僧でなければならない。意識による偽の証果・偽の明心の者は依然として凡夫の僧であり、意識が操作されていない時は、証果も明心もしていない意根の本性が完全に露呈し、必ず意根の思想見解と煩悩に従って生死輪廻する。

和合とは六和敬の宗旨に従って共に居住することをいう。六和敬とは、見和同解(見解の和合)、戒和同修(戒律の和合)、身和同住(身体の和合)、口和无諍(言葉の和合)、意和同悦(意思の和合)、利和同均(利益の和合)である。もし意見・見解が一致しなければ和合ではない。三帰五戒・八戒・比丘戒・比丘尼戒・菩薩戒を遵守せず、修める戒律の内容が一致せず仏陀の制定に合わなければ和合ではない。色身が共同の場所に居住できず東西南北に雑居すれば和合ではない。内部で互いに争い、罵り合い、攻撃し足を引っ張り、是非紛争が絶えなければなおさら和合ではない。顔を合わせ共にいる際に不快で、内心で憤り不満を抱き隔たりが多ければ和合ではない。衆生間で利益が均等でなく、いかなる利益であれ一方が犠牲と付出のみで報いがなく、他方がただ索取と占有するだけなら同様に和合ではない。いずれか一項に違反しても和合僧団を構成できない。

真の和合僧団は、仏陀に代わって正法を千古に伝え、衆生を生死の火宅から救済する。これを破壊することは、衆生が生死を出る舟筏(乗り物)を破壊するに等しい。その果報は解脱を得て生死の苦を出ることができなくなることであり、ゆえに極楽浄土に往生できず、証果も明心もできない。不和合の僧団にはこの過失はなく、不和合の僧団は衆生に煩悩と苦果をもたらし、衆生の煩悩の上にさらに煩悩を増し、束縛と枷を増やし、生死をより一層苦しいものとする。

父母は自らに肉身を与え、この色身によって正法に遇い修学し、解脱を得る機縁を持ち、永久に生死を離脱することができる。ゆえに父母の恩は山よりも重く、骨身を砕いても父母の生養の恩に報いるのは難しい。衆生は供養しないばかりか、かえってこれを殺害する。父母殺害の罪は比類なく重く、死後は無間地獄で解脱を得られない。ゆえに父母を殺害すれば極楽浄土に往生できず、証果も明心もできない。

正しい仏法は、衆生がこれに依って修学すれば解脱の因となり、解脱を得て生死を了脱できる。もしこれらの法義を誹謗すれば、それは正法を信じないことであり、信すら足りないのにどうして修学できようか。修学できなければどうして解脱できようか。法は生死の海を渡る舟筏のようなものであり、舟筏を破壊すれば衆生は何をもって生死の海を渡れようか。正法を誹謗することは、自ら信じないばかりか他者が信受するのをも阻み、その罪は甚大である。自ら必ず生死を出離して解脱を得られず、ゆえに極楽浄土に往生できず、証果も明心もできない。

衆生を解脱させ得る法は、小乗の四聖諦・十二因縁を含み、大乗の如来蔵系列の法、すなわち般若・方広・唯識、五識・六識・七識・八識の理論、戒定慧の三無漏学も含む。四聖諦と十二因縁は衆生に小解脱を得させるが、永久の究竟解脱は得られない。大乗如来蔵の法は衆生に永久の真実の究竟解脱を得させる。第七識である意根の法は、衆生の小解脱を保証し、大解脱から究竟解脱に至るまでをも保証する。一切の解脱は、いかなる程度であれ、意根の解脱による。意根が解脱しなければ全ては仮の解脱であり、煩悩は断たれず、生死は了(おわ)らず、苦海は出ず、涅槃の清涼寂静には至らない。

五逆罪を犯す者は極めて稀であるが、正法を誹謗する者はますます増え、至る所で見られ、普遍的にそうである。ゆえに大衆に勧める。自らの禅定・智慧が不足し証量が足りないならば、時処所々で言行を慎むべきである。審判員となる資格がない時は黙って自らを修持し、仮に暫時は証果も明心もできず唯識種智がなくとも、世間の智者となり、自ら災いを招き禍を惹かず、自らの解脱の道に障害を設けないようにすべきである。

——生如法師の開示
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