衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2019年02月11日    月曜日     第3開示 合計1249開示

生死流転の業縁とは貪愛であります

臨終の際、貪りの念があれば、家族眷属への執着であれ、人間の生活への執着であれ、財産や情愛への執着であれ、全て餓鬼道に生を受けることになる。もし臨終の一念が瞋恚の念であれば、その対象が何であれ、程度が深刻な場合は地獄に生を受ける可能性がある。

従って、全ての望みを臨終に託し、その時に念仏を称え、心を清浄に保てると考えるのは非常に頼りない。誰がそれを保証できようか。臨終には何が起こるか分からず、自らの心の状態も予測できない。平生の心すら制御できない者が、臨終に四大が分離し業障が現前する時、ほぼ確実に業縁に従って心を動かされ、三悪道に堕ちる。三悪道に堕ちない保証など全くない。

三悪道への転生を確実に防げるのは、我見を断ち明心するか、あるいは『観無量寿経』の第三観「地観」を成就する場合のみである。念仏によって往生の時期を知ることも確実ではない。その時、念仏の心が専一でなく誠心が足りなければ、仏は迎えに来られない。

九割以上、いやそれ以上の学仏者は、臨終に三悪道に生を受ける。その多くは餓鬼道へ堕ちる。なぜなら全ての人に貪心があり、貪欲を断ち切っていないからである。貪欲が断たれるのは我見を断った後、初禅定が生じ、その定中で貪欲と瞋恚が断たれる場合のみで、それ以外は全て貪欲心を有する。しかし初果と二果の聖者には貪欲心があっても、三つの結縛(三縛結)を断っているため、もはや餓鬼道に生を受けることはなく、欲界天または人間界に生を受けて引き続き貪りを残し、徐々にそれを断っていくのである。

六道輪廻とはこのように無情で、情実を顧みない。真実の修行と証得がなければ、命終すると業障に従って流転し、貪念に引きずられて生を受ける。選択の余地はない。平生に訓練がなく、また訓練が成功していないからである。我見を断った者のみが、訓練を成就した者といえる。

しかし偽りの我見断ち・偽りの明心の者は、依然として訓練が成就しておらず、三つの結縛を断っていないため、依然として貪念に従って餓鬼道に生を受けざるを得ず、これは避けられない。

無数の学仏者は、未だ自覚せず、毎日のように飲食・衣服・住居に貪り、享楽を好み、いわゆる自由気ままを好み、華やかさを好み、安楽を好んでいる。これらの好みこそが煩悩の結びつき(煩悩結縛)であり、自らを六道に縛り付ける病根であり、来世の業縁である。人は一生で享けるべきものは全て享けたが、来世はどうなるのか。今の享楽が重要なのか、それとも来世に三悪道の苦しみを受けないことが重要なのか。

また、高尚に見える修行法として「肉を食べる時に肉を食べていると思わない」というものがあるが、実際に肉を食べながらその想いを転じられる者、すなわち心の境地を転換した者は、済公和尚がその一人と言えるが、他に何人できるだろうか。そもそも肉に興味がなくなったのなら、なぜわざわざ肉を食べねばならないのか。畜生が一匹でも死なずに済む方が良くないか。臨終の時、肉の主(殺された動物)が債権を請求しに来た場合、その債務を返済せずに済ます能力があるのか。

——生如法師の開示
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二十四祖師子尊者伝法偈

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初地菩薩が阿羅漢のように永く性障を伏せるとはどういう意味でしょうか

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