舎利弗が釈迦仏を供養することと、釈迦仏が舎利弗を供養することと、どちらが得る福報が大きいでしょうか。二人が同じく一元を同じ人に布施する場合、どちらが得る福報が大きいでしょうか。一人が二人とも同じ一元で供養する場合、どちらを供養すればより大きな福報を得られるでしょうか。これらの福徳をどのように衡量すべきでしょうか。一人が異なる心境で同じ人を供養する場合、いつ最も大きな福報を得られるでしょうか。
布施するとき、心が無為で無求であるほど、得る福報は大きくなります。仏が布施するとき、心は最も空であり、最も無求であるため、得る福報が最大となります。舎利弗が布施する対象が仏という最も殊勝な福田(ふくでん)であっても、心が空であることの福報には及びません。一切の聖賢は無為法によって差別があるのです。小乗の法を証得した無為と、大乗の法を証得した無為とでは、その無為の次元に大きな差があります。同じく大乗の法を証得しても、智慧の程度が異なれば無為の次元も異なります。世間の一切の差別相は、即ち心の差別です。ただ心を修めさえすれば、一切は気にせずとも自然に得られ、得ようとすればするほど少なくなり、得ようとしなければしないほど多く得られるのです。
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