通常、修行は次第に進めるものであり、各段階ごとに修行内容が異なり、修行のレベルによっても内容が変わります。凡夫には凡夫の修行方法があり、賢人には賢人の修行方法があり、聖人には聖人の修行方法があります。凡夫が聖人の修行方法を用いることは絶対にできません。差が大きすぎて、全く力が及ばないのです。
凡夫は五蘊の生滅変異が無常であることを観じ、四聖諦(苦・集・滅・道)を観じるか、あるいは禅を参じて心を明らかにすることを求めることしかできません。凡夫は八地の菩薩が証得した境地、例えば「住む所なく執着することなし」「一切の法を空となす」「相を取って分別せず」「任運自然」などを観じることはできません。
凡夫と悟りを得た賢人は、ちょうど有心(うしん)と相に執着して善法を修行する段階にあります。賢人はすでにいくつかの相を初歩的に破っていますが、そのレベルはまだ浅いのです。この段階で相に執着せず、相の上で一切の法を認識しないようにしようとすることは、できないだけでなく、かえって傲慢不遜になり、因果を否定してしまいます。例えば凡夫が肉を見たならば、これは衆生の肉であると思い、慈悲心によって衆生の肉を食べるべきではないと考えるべきです。これが正しい修行の方法です。この時に肉を空と見て無相とし、真如と見なし、食べても食べていないのと同じだと思い込んで、大口を開けて食べながら、自分は真如の境地に入ったと思い込むべきではありません。実際には貪欲の境地に入ってしまっており、これは誤った修行方法です。
例えば凡夫が男性の相・女性の相を見て、男女の相を空じて全てを真如の一相と見なし、自分にはもう男女の相がなくなったかのように思い込み、無遠慮に交際すれば、結果として定力が著しく不足し、二人とも道を外れてしまいます。このような修行方法は悪取空(あくしゅくう)とも呼ばれ、罪過は非常に大きいものです。もし異性が自分に対して特別な要求を持っているのに、自分は相に執着せず、相手を空・真如の化身と見なして「随縁(ずいえん)」に任せれば、結果として菩薩戒の十重戒(じゅうじゅうかい)を犯すことになり、地獄行きは確実です。いわゆる「随縁」には、必ずそれ相応の力量が備わっていなければなりません。内心で空を証得し、真に心を空じて念を起こさず相に執着しない境地に至り、初禅の定力と初地以上の菩薩の智慧がなければ、誰もただ考えたり口にしたりするだけで、到底実行できません。やはりしっかりと戒律を守って修行し、修行の境界と次第を飛び越えてはならないのです。
凡夫が過去に造った罪業を懺悔したいならば、相を取って自らの悪心・悪行を懺悔し、悪い心行を改めることを目指すべきです。それなのに大乗の無相懺悔を行い、強引に一切の煩悩はそのまま菩提であり真如の相であると認め、しかも無相を証得できないまま、そう思った後は心が安らかになったと感じるのは誤りです。心が安らかになったとしても、罪業は依然として存在し消えておらず、果報は容赦しません。このような行いは悪取空であり、果報は寸分の狂いもなく現れます。
私たちが仏法を学び修行するには次第と方法があり、でたらめに行ってはなりません。菩薩にできることが凡夫に必ずしもできるわけではなく、異性に対して「随縁」に教化することは凡夫の及ぶところではなく、それは深甚な禅定を得た地上の菩薩のなすことであり、凡夫が行えば必ず三悪道に堕ちます。
現代の仏法は実に乱れきっています。多くの人は意識心が非常に賢く、地上の菩薩や仏陀の修行境界も多少は理解しているため、地上の菩薩が修行すべき法を口先で唱え、自分にもできると思い込んでいます。それが可能でしょうか? あなたは善財童子(ぜんざいどうじ)ではなく、善財童子のような善根福徳もなく、しっかりと禅定を修め観行することも望まないのです。
私たちは修行において口先だけの習慣を改めるべきです。仏法は実修してこそ初めて実証できます。実修実証はスローガンのようなものではなく、実修にふさわしい具体的で実行可能な方法が必要です。もしそれがなければ、それは実修ではなく実証もできません。たとえ私たちが仏の説かれた言葉を話すことができたとしても、何の役にも立たず、ただスローガンを叫んでいるに過ぎません。足元を一歩一歩踏みしめて進んでこそ、初めて望みが見えてくるのです。
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