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煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2023年05月28日    日曜日     第3開示 合計3951開示

なぜ声聞は多聞を厭い、縁覚は思惟を厭うのか

優婆塞戒経第七巻原文:声聞の人は多聞に厭う。縁覚の人は思惟に厭う。仏はこの二つに対して心に疲厭なし。故に仏と名づく。

解釈:声聞の根器を持つ人はなぜ多聞に倦むのか。小乗経典では、仏はかつて声聞人は多聞を好むから声聞と呼ばれると説いたが、大乗においては、仏は声聞人が多聞に厭うと説いている。これは仏の説法が常に矛盾しているのか。実はそうではない。それぞれの定義には前提条件があり、それは一定の範囲内での定義である。その範囲を超えると、従来の定義は適さなくなり、定義は変更されなければならない。声聞人の多聞とは、小乗解脱道の範囲内における多聞であり、四聖諦・世俗諦の範囲内における多聞である。この範囲を超えると、彼らはそれ以上知ろうとせず、現状に満足し、同時にこの範囲を超えてはもはや何の法もないと考えてしまう。このような認識の限界は、彼らの発心、彼らの心の器量と視野、そして彼らのそれほど深くない智慧の見地に起因している。

声聞人は仏の説法を聞くことで五蘊世間の苦を認識し、彼らの発心は小さく、ただ世間の苦から解脱したいと願う。世間の苦から解脱さえできればそれで十分であり、遠い三大無量劫の成仏の道には興味がない。また、三界の束縛から解脱すればそれで仏になると考え、それ以外には修めるべきものも証すべきものもないと考える者もいる。善根・福徳・智慧の限界により、彼らが四聖諦を修学する際、大乗般若如来蔵の理に触れることができず、盲目的に四聖諦こそが解脱にとって究極であり、他に法はないと考えるに至る。まさにこのような愚かな智慧に基づいて、法華会において五千人の比丘が退席したのである。彼らは大乗の法を信ぜず、聞かず、ましてや思惟しようとはしない。この点からも、声聞人は実は仏法を多聞することを好まないことがわかる。

縁覚・辟支仏の善根と智慧は声聞人よりも深い。彼らは仏のそばで仏法を多聞する必要はないが、因縁に遇えば独りでそのいきさつを思惟し、根源を究め、法の底源に徹する。そこで十二因縁法の思惟が生じ、反復正逆の推察の中で、五蘊世間の一切法の最初の源である阿頼耶識に触れる。彼らは阿頼耶識まで思惟すると、根性と習性のゆえにこれ以上思惟を進めず、この法界の実相真理を実証しようとも思わない。智慧は三界世間の苦から解脱できる程度で停滞してしまう。なぜなら、彼らは大菩提心を発して仏道を成就しようとはせず、ただ五蘊世間の束縛から解脱したいと願い、他に求めるものがないからである。それゆえ現状に満足し、五蘊世間の苦からの解脱に関する無明を断ずることに満足し、より深く微細な無明を断とうとする欲望も計画もない。だからここで仏は、縁覚は思惟に厭うと言われたのである。

仏は声聞・縁覚とは異なり、三大無量劫の修行の中で、広大な心を発し、無量の衆生が苦を離れることを願い、自らの安楽を得ることを願わない。根が深く器が大きいため、智慧も広大である。法界の真実理を探究するため、難行を行じ、難忍を忍び、現前に得た小法・浅法に満足せず、絶えず深く思惟し、絶えず究極の真理を探究し、真理への追求に決して倦むことがなかった。それゆえに最終的に一切種智を円満し、仏道を成就したのである。

まとめると、一人の人の根器は極めて重要である。根が深く器が大きければこそ枝葉が繁茂し、心が大虚を包み込めばこそ量が沙界に及ぶ。菩薩が一人の大根器の衆生を度することができれば、それはどれほど幸運なことか。大根器の衆生に遇うことはどれほど宝のようなことか。誰が余計な心を使って役に立たない利己的な声聞人を度そうとし、自分自身の貴重な衆生救済の精力を消耗しようとするだろうか。その精力で一人の初発心の菩薩を度するのは、百千万億の声聞人を度するに勝る。この初発心の菩薩は、将来成就した時、無量の衆生の苦を抜き救い、無量の衆生を解脱へと導くことができる。もし善根がすでに熟した菩薩を度すことができれば、それはなおさら非常に幸運なことである。

したがって、もし私に偏った心があるのを見かけたら、何も怪しんだり誤解したりしないでほしい。私が何故偏るのか、心がどこに偏っているのかを見てほしい。偏っているところには必ず大乗菩薩がいる。初発心の菩薩であれ、久修の菩薩であれ、とにかく菩薩であり、将来は仏となり、無量の衆生がそこから利益を得て解脱するであろうし、おそらく今も多くの衆生が密かに利益を受けているかもしれない。もし私に偏った心がなければ、それは平等心がないことであり、不公平なことが起こる。そのような心こそが偏っているのである。例えば、甲が百の貢献をし、乙が一の貢献しかしていない場合、私が同じ待遇を与えるのは明らかに不合理であり、不公平であり、不平等である。

仏も同様に偏った心を持っている。仏は大乗菩薩を偏愛し、仏子を偏愛される。誰が仏子か。初地以上の菩薩が仏子である。これらの菩薩は五蘊世間解脱の智慧においては阿羅漢や辟支仏に及ばず、彼らと大きく差があるにもかかわらず、仏は地上の菩薩を護り、彼らを実の子と呼び、如来の家業を継がせる。一方で、阿羅漢や辟支仏を焦げた芽と腐った種と呼び、声聞・縁覚を我が子・仏子とは決して呼ばれない。仏が娑婆世界に衆生を度すために来られた時、お供をしたのは全て仏が無量劫に渡って度した各階位の菩薩たちであり、これらの菩薩たちは他方世界に居ながらも、仏に随って十方世界に赴き衆生を度す。仏の随従衆の中に声聞・縁覚は存在しない。仏が娑婆世界で説法された際、声聞・縁覚のためにはわずか十二年しか説かれず、菩薩たちのためには三十年以上も説かれた。三蔵十二部経の中には、ごく少量の声聞・縁覚の法しかなく、その大部分は大乗菩薩の法である。説かれなかった法の中には、さらに極めて多くの菩薩の法が含まれている。

——生如法師の開示
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