優婆塞戒経第七巻原文 :声聞の人は多聞を厭う。縁覚の人は思惟を厭う。仏はこの二つに心疲れ厭うことなし。故に仏と名づく。
釈:声聞の根器を持つ人々がなぜ多聞を厭うのか。小乗経典において仏はかつて「声聞人は多聞を好むが故に声聞と呼ばれる」と説いたが、大乗においては「声聞人は多聞を厭う」と説く。これは仏の説法が常に矛盾しているのか。実はそうではない。各定義には前提条件があり、一定の範囲内での定義である。その範囲を超えると、従来の定義は適さなくなり、定義を改める必要が生じる。声聞人の多聞とは、小乗解脱道の範囲内における多聞であり、四聖諦・世俗諦の範囲内における多聞である。この範囲を超えると、彼らは更なる知識を求めず現状に満足し、この範囲外に法は存在しないと考える。この認識の限界は彼らの発心、心量と眼界、そして未だ深遠ならざる智慧見地に起因する。
声聞人は仏の説法を聞き、五蘊世間の苦を認識する。彼らの発心は小さく、ただ世間の苦から解脱することを願う。世間苦からの解脱さえ得られれば十分であり、遥か三大無量劫を要する成仏の道には興味を持たない。ある者は三界の束縛を解脱すれば即ち成仏したと考え、これ以上修めるべき法はないと信じる。善根・福德・智慧の限界により、彼らが四聖諦を修学する際、大乗般若如来蔵の理に触れることができず、四聖諦が解脱にとって究極の法であると妄信する。このような愚かな智慧故に、法華会において五千比丘が退席し、大乗法を信ぜず聞かず、まして思惟しようとしなかった。ここに声聞人が実は仏法を多聞することを好まないことが窺える。
縁覚辟支仏の善根智慧は声聞人より深い。彼らは仏の傍で多聞する必要はないが、因縁に遇えば独りで物事の因果を思惟し、根源を究明する。十二因縁法を反復順逆に思惟する中で、五蘊世間一切法の最初の源である阿頼耶識に触れる。阿頼耶識に至ると、根性と習性により更なる思惟を進めず、法界実相の真理を実証しようともせず、智慧は三界世間苦からの解脱可能な程度に留まる。彼らは大菩提心を発して仏道を成じようとせず、ただ五蘊世間の束縛から解脱することを求め、現状に満足する。より深細な無明を断つ欲望も計画もない。故に仏はここで「縁覚は思惟を厭う」と説かれる。
仏は声聞縁覚と異なり、三大無量劫の修行において広大な発心を起こし、無量の衆生を苦から離れさせんがため、己が安楽を求めず、根深く器量大きく、智慧広大なり。法界の真実理を探究するため、難行を行じ、難忍を忍び、現前の小法浅法に満足せず、絶えず深く思惟し、究極の真理を探究する。真理への追求に倦むことなく、遂に一切種智を円満し仏道を成就する。
要約すれば、人の根器は極めて重要である。根深く器量大きければ枝葉繁茂し、心が太虚を包めば量は沙界に遍く及ぶ。菩薩が大根器の衆生を度すことができれば、これほど幸運なことはない。大根器の衆生に遇うことは宝を得るが如し。誰が余計な心を費やして無益な声聞人を度し、貴重な衆生救済の精力を消耗しようか。この精力で一人の初発心菩薩を度すことは、百千万億の声聞人を度すに勝る。初発心菩薩は将来成就の時、無量衆生の苦を抜き、無量衆生を解脱へ導く。もし善根熟した菩薩を度せば、これ以上に幸運なことはない。
故に、私に偏りを見るならば、怪しんだり誤解せず、何故偏るのか、心がどこに向くのかを見るべきである。偏る所には必ず大乗菩薩がいる。初発心の菩薩であれ、久修の菩薩であれ、総じて菩薩であり、将来成仏して無量衆生を利益解脱させる。今この時も多くの衆生が密かに利益を受けているかもしれない。私に偏りがなければ、平等心を失い、不公平が生じる。例えば甲が百の功績をなし、乙が一の功績をなす時、同等に扱えば明らかに不合理で不公平、不平等となる。
仏にも偏りがある。仏は大乗菩薩を偏愛し、仏子を慈しまれる。仏子とは初地以上の菩薩である。彼らが五蘊世間解脱の智慧において阿羅漢や辟支仏に及ばず、大きく劣っていても、仏は地上菩薩を護り「我が子」と呼び如来家業を継がせる。一方、阿羅漢辟支仏を「焦芽敗種」と称し、声聞縁覚を「我が子」とは説かない。仏が娑婆世界に来たりて衆生を度す時、常に随従するのは無量劫に渡り度した各階位の菩薩である。彼らは他方世界に居ながらも仏に随って十方世界で衆生を度化する。仏の随従衆に声聞縁覚はいない。仏が娑婆世界で説法する際、声聞縁覚のためには僅か十二年間、菩薩のためには三十年以上説かれた。三蔵十二部経中、声聞縁覚法は少量で、大部分は大乗菩薩法である。未説の法も多くは菩薩法である。
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