修行の指針は戒・定・慧を増長し、煩悩を降伏させ、貪・瞋・痴を消滅させることにあります。これに当てはまらなければ、修行とは言えません。布施による福徳の修養も同様で、どのような心で福を修めるかが重要です。自己の貪欲などの欲望のためではなく、恩を売るためでもなく、純粋に衆生の利益のために菩提心を抱いて福を修めるならば、道業を助長する作用があり、戒・定・慧を生じさせます。このような福徳の修養こそが修行と言えます。一方、菩提心を発さない福徳の修養は結局のところ貪・瞋・痴を増長し、無明を強めるだけで、それは修行とは言えません。
明らかな事例が魔王波旬(はじゅん)です。波旬は前世において寺院を建立し、辟支仏を供養したことで大いなる福報を得て、他化自在天の天主となりました。前世で菩提心を発していなかったため、彼の福徳の修養は道業のためではなく貪欲を満たすためのものでした。彼はこの大福報をもって六道の衆生を支配し、眷属欲を満たそうとします。衆生が彼の支配から脱するのを妨げるため、彼は絶えず仏法を破壊し、衆生が欲界を脱する機会を奪い、ましてや六道を出離することを阻みます。そうして衆生を生生世世にわたり彼の魔眷属とし、共に貪欲にふけらせ、生死を輪廻させるのです。したがって、菩提心を発さずに福を修めると、福報を得た後に大いなる悪業を造る可能性があり、むしろ福を修めない方がましだと言えます。もう一つの事例がヒトラーです。ヒトラーも非常に大きな福報を持っていました。大福報があったため、大悪業を造ることに何の障害もなく、彼が殺害した人の数は娑婆世界において最多と言えます。彼が地獄に堕ちたなら、出期を得るのは非常に困難でしょう。もし彼が福を修めていなければ、世界は平和になり、衆生は生死の苦しみを受けることはなかったのです。
菩提心を発さずに諸々の善法を修めることは魔業となります。この理に対し、なおも納得できない者もいますが、事実はここに明らかなのに、どうして納得できないことがあろうか。多くの大悪業は、福のない者に造り得るものでしょうか。福が大きく権勢が強いほど、悪業を造るのを阻止できる者はおらず、また比類する者もいません。このような福こそが衆生の不幸なのです。
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