問:如何にして一つの経典が真経か偽経かを判断するのか?仏教の呪文の中で、如法なものと不如法なものはどれか、その判断基準は何か?大蔵経にはチベット仏教の経典が多く収録されているが、もし偽経ならなぜ大蔵経に収録されるのか?もし一部の経呪に問題があるなら、なぜ1000年以上も伝承され途絶えなかったのか?
答:経典や呪文の真偽を判断するのは、全て経験と智慧によるものであり、伝授することはできません。経験と智慧がなければ、評定したり断定したりせず、できるだけ慎重に距離を置くのが良く、悪業を造りながら自覚しないことを避けるべきです。大蔵経の多くは凡夫が収集・収録・編集・整理したものですが、凡夫が何を知っているでしょうか?もし魔王が大蔵経の役割が大きいのを見て、自ら整理印刷しようとするなら、どんな内容を加えるでしょうか?
外道邪法がどれほど長く伝揚されても、伝えられた法が正しいことを説明できず、伝承が長く続くのは、衆生が愚痴で智慧がなく正邪を弁別できないからです。例えば、衆生は無量劫にわたって五蘊が我であると考え、我は実在すると信じており、無量の無量劫もそう考え、今に至るまで伝わっていますが、五蘊が我であるという観念が正しく誤りがないことを説明できません。衆生は無量劫にわたって、五蘊の世間法を執取すべきであり、世間法こそが良く、須臾も離れてはならないと考えてきましたが、実際はそうではありません。もし仏が五蘊の世間は空で無我であると教えてくれなければ、私たちは永遠に五蘊の世間を執取し続けるのではないでしょうか?たとえさらに無量の無量劫があっても同じことであり、愚痴無明の衆生にとって時間が何を説明し何を変えられましょうか?
同様に、同じ知見を持つ人がどれほど多くても、邪見は正見にはなりません。真理は信受する人数の多寡によって確立されるものではなく、往々にしてピラミッドの頂点にあり、最底辺の人々の手中にはありません。したがって、娑婆世界のような穢土においては、真理は往々にして少数者、ごく少数者の手中にあり、時には世界中に真理を掌握する者が一人もおらず、全てが愚痴無明の衆生であることもあるのです。
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