衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2023年06月03日    土曜日     第1開示 合計3955開示

戒律を守ることは修行に当たるのでしょうか?

甲は言います:修行の究極の目的は我執を破り、さらに法執を破ることです。そして我執・法執を破るには般若の智慧が必要であり、もし般若の智慧を成就しようとするならば、必ず禅定の助縁がなければなりません。禅定の助縁がなければ心は散乱し、たとえ般若の智慧を熏習したことがあっても力を発揮できません。ですから定功が必要なのです。そして禅定の基礎は戒律を守ることにあり、戒律を守ることによってのみ、良くない業を行わないように遮止し、身・口・意の三業を清浄に保つことができます。その時初めて般若の智慧を用いて内面の貪・瞋・痴、我執などを破る力が生まれるのです。

甲の意味するところは、戒律を守ることが禅定を助け、清浄心を保ち、悪業を作らず、禅定の力の下で貪瞋痴の煩悩を断ち切り、我執と法執を破ることに役立つということであり、このような戒律を守ることは修行であるとされています。しかし私は、単に悪業を作らないという戒律を守るだけではまだ不十分だと考えます。確かに初心で仏法を学ぶ立場から言えば、それで十分に良いことではありますが、まだ修行の段階には入っておらず、したがって修行とは言えません。

「修」とは自らの思想観念と身・口・意の行いを修正することであり、「行」とは身体をもって実践し、具体的に操作することで、善法・善業に対して何らかの造作を行うことです。ただ悪を行わないだけでは不十分です。衆生の身・口・意の行いはすべて貪瞋痴の煩悩を具え、無明を具えています。これらの無明煩悩は善法をもって対治する必要があり、善が来れば悪は去り、善があれば福があります。福徳は第一に戒律を守ることを助け、第二に禅定を生じさせ煩悩を降伏することを助け、第三に智慧を生じさせ誤った思想観念を改め、身・口・意の行いを清浄にし、身心世界をともに転換させることを助けます。単に戒律を守って悪を行わないだけでは、善法を具足できず、大いなる福徳を持つこともできません。したがって、まだ修行とは言えないのです。

乙は言います:小乗の戒を守ることは真の仏道修行ではなく、せいぜい修行の保障に過ぎず、菩薩戒を守ることこそが修行です。仏道を修行することは、あたかも一艘の船が苦の海を行くようなもので、船の進む方向と道筋が第一に重要です。仏世尊が示された修行の道筋図が最も重要であり、法の船は二番目に重要です。単に小乗の戒を守るだけでは、なぜ仏道修行とは言えないのでしょうか。例えば、ただ自分の小船が暗礁に触れず、水も漏れないように守っているだけで、孤零零と苦の海に漂い、自利もできず、利他もできない状態では、どうして自他ともに利益する修行と言えるでしょうか。

乙の見解は、単に小乗を守るだけではまだ修行とは言えず、大乗の戒を守ってこそ修行だというものです。しかし、大乗小乗を問わず、純粋な発心があればどちらも修行であり、ただそれぞれの目標が異なるだけです。小乗は途中で下車しますが、大乗は終点で下車します。戒律を守ることが修行かどうかは、どのような心の行いをもって戒律を守るか、戒律を守ることが目指す結果が何かという点にかかっています。もし戒律を守ることが人天の福報のためであり、人天の福報を得ても、あるいは悪業を造るか、福が尽きれば再び堕落するのであれば、このような戒律を守ることは依然として堕落を招き、修行とは言えません。外道も戒律を守り、多くの人は五戒を決して犯さず、心も清浄ですが、最終的には依然として外道であり、仏道を行いません。このような戒律を守ることも修行とは言えません。

小乗の修行の目標は我見を断ち、無我を修め、五蘊が私であるという思想観念を改め、五蘊の束縛から解脱することです。もし無我無私の心をもって戒律を守ることができれば、我見を断ち解脱へと向かい、涅槃の果証を得ることができます。そのような戒律を守ることは修行に属します。逆に、我ありの心で、無我の行いをせず、心の隅々にわたって私を計算しているような戒律の守り方は修行ではなく、無我の果徳を得ることはできず、戒の福を得た後には再び堕落します。大乗は無我の心をもって利他の行いをなし、大いなる菩提心を発します。このような戒律を守ることは修証の基礎であり、心性を改め、定慧を増長させ、明心証悟へと導くことができるため、修行として認められるのです。

——生如法師の開示
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精進して法を学ぶことは修行とみなされるでしょうか?

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