衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2018年10月01日    月曜日     第4 回の開示 合計860回の開示

意根は捨受だけで、苦受と楽受はないのでしょうか

もし意根が如来蔵のような捨受であるならば、あらゆる境界に対し如来蔵のように如如不動であるべきで、いかなる境界が現前しようとも、善き境界を執取せず、悪しき境界を捨てず、心中に境界の善悪を分別せず、六識に喜びと嫌悪の貪瞋痴の行為を造作させず、衝動的な行動も起こさない。事に遇えば怒髪天を衝くこともなく、拳を振るい足を蹴ることもなく、喜色を表し手舞足蹈することもなく、すべて平平淡淡として、何事にも無関心な様相を呈するはずである。

もし意根がいかなる境地にあっても無関心で捨受であるならば、永遠に主導権を握って六識に貪瞋の業行を造作させることがなく、喜悦・愛楽・貪愛などの思想情緒が生じず、憤怒・嫉妬・不平などの思想情緒も現れない。それならば意根は平等性を具え、一切の境界に対し心は平等で偏りがなく、怨親を一律に平等に扱い、心中に怨親の区別がなく公平公正である。心中に極楽浄土を欣楽せず、娑婆穢土を厭棄せず、成仏作祖を好まず、三界を厭離して涅槃に入ることもない。

もし意根が捨受であるならば、その本体は如来蔵と同じく解脱しているはずで、善悪の境界も意根を束縛できず、一切の境界を受けない。これが解脱の心である。しかし実際はそうではなく、意根の貪瞋痴煩悩は甚だ重く、貪得の心は自ら抜け出せず、瞋心は自ら救われず、三界法、特に三悪道に緊縛され離れることができない。故に意根は単に捨受のみならず、三受を具え、捨受の時は少ないと言われる。

ある事柄に対し、意識は非常に忍ぼうとするが、結局耐えきれず情緒が爆発する。制御できないこれは何の受か。誰の受か。これは苦楽受であり、意根の受である。この時意識は理性的で、常に意根を抑制し、意根に耐え忍ばせ、発作を起こさせまいとする。しかし意根は結局耐えきれず発作を起こす。もしこの時意根が捨受であるならば、意識が抑制する必要もなく、平平淡淡と過ぎ去り、情緒もなく、いかなる極端なことも起こらず、思いもよらぬ結果も生じない。

多くの場合、理由もなく情緒的になり、喜びも不満も、意識はその理由を知らない。どこから喜びや不満が生じたのか、意識は時に原因を究明しようとするが、どう考えても分からない。意根は真に測り難いものであるからだ。

——生如法師の開示
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