衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2019年02月14日    木曜日     第2開示 合計1257開示

雑阿含経第1巻第七

世尊は諸比丘に告げられた:もし人が色蘊(しきうん)に対して貪愛(とんあい)し喜ぶならば、それは苦を喜ぶことに等しい。苦を貪愛し喜ぶ人は、苦から解脱(げだつ)することがない。色蘊を貪愛し喜ぶがゆえに、身見(しんけん)は断たれず、色蘊に繋縛(けいばく)され、心は色蘊を執着(しゅうじゃく)し貪り取る。貪執(とんしゅう)が絶えないならば、意根(いこん)の色蘊に対する執着は絶えず、命終(みょうじゅう)の時、意根は執着のゆえに、常に色蘊の存在を願い求める。そうして中有(ちゅうう)の身が生じるのである。

中有の身は七日ごとに滅び、最大七つの中有がある。意根は中有の身が頼りにならないと知ると、慌てふためいて生まれ変わろうとし、未来世の色蘊の存在を保たんとする。生まれ変わった後には次の世の色蘊が生じ、そうして生老病死(しょうろうびょうし)の無量の憂悲苦悩(ゆうひくのう)が生じる。純大苦聚(じゅんだいくしゅ)が生じるのである。そうして衆生はこれらの無量の憂悲苦悩を受け、生死の苦から解脱できず、苦しみは絶えない。それゆえ世尊は、色蘊を貪愛することは苦を貪愛することであると説かれた。

世尊はかつて弟子たちを率いて海辺に行かれ、砂浜に横たわる一つの女の死体をご覧になった。その死体は膨れ上がり腐敗(ふはい)し、顔には一匹の虫が這っていた。世尊は弟子たちに告げられた:この女性は生前、非常に美しい容姿であった。彼女自身が自分の相貌(そうぼう)を大変好み、毎日鏡を見て自分の顔を眺めていた。命終の時、自己への貪愛に執着して離れなかったため、虫と化して顔を這い回り、なおも自分の顔を貪愛し続けているのだ、と。この物語は、何を好むかによってそれに繋縛され、離れられず、解脱できないことを教えている。必ず未来世の生老病死が生じ、憂悲苦悩を離れられず、生死の苦から解脱できないのである。世尊が貪愛を断つよう求められるのは、苦を断ち、心を解脱させ、生死輪廻(りんね)から出離(しゅつり)させるためである。

世尊は諸比丘に告げられた:このように、受蘊(じゅうん)・想蘊(そううん)・行蘊(ぎょううん)・識蘊(しきうん)に対して貪愛し喜ぶならば、それは苦を貪愛し喜ぶことである。苦を喜ぶ人は、苦から解脱することができず、苦しみは絶えない。受蘊・想蘊・行蘊・識蘊を貪愛するがゆえに、これら四蘊に繋縛され、心はこれら四蘊に執着する。執着が絶えなければ、未来世の存在(有)は絶えない。命終の時、意根の執着のゆえに中有の身が生じ、再び生まれ変わろうとする。そうして次の世の受想行識の四蘊が生じる。そうして生老病死の無量の憂悲苦悩が生じ、衆生は苦しみを絶えず受け、生死輪廻の苦から解脱できないのである。

世尊はさらに諸比丘に告げられた:もし色蘊に対して貪愛し喜ぶことを止めるならば、色蘊に繋縛されず、心は色蘊に執着しなくなる。再び中有の身が現れることはなく、あるいは意根は中有の身の中で自らを滅し、生まれ変わることはない。そうして未来世の色蘊は生じず、生老病死の無量の憂悲苦悩もまた滅する。心は解脱し、生死輪廻の苦からも解脱するのである。

世尊はさらに諸比丘に告げられた:もし受想行識の四蘊に対して貪愛し喜ぶことを止めるならば、これら四蘊に繋縛されず、心は再び四蘊に執着しない。再び中有の身が現れることはなく、あるいは意根は中有の身の中で滅し、生まれ変わることはない。そうして未来世の四蘊は生じず、生老病死の無量の憂悲苦悩もまた滅する。心は解脱し、生死輪廻の苦からも解脱するのである。

——生如法師の開示
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