衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常開示

2023年07月12日    水曜日     第1 回の開示 合計3975回の開示

三果人が初禅定の果位を退失した場合、再び退失することはあるのでしょうか?

『瑜伽師地論』に説かれるところによれば、三果の聖者は仮に禅定を退失したとしても、その果位は退失しません。根本煩悩は既に断たれ、再び生じることはないためです。枝葉煩悩が現れたとしても、心はもはや以前のように真の煩悩を抱くことはなく、時に意識表面に現れる些細な煩悩は、意根の深層に根差すものではなく、生じても速やかに消滅するものであり、真の煩悩とは言えません。これらは解脱の智慧に影響を及ぼさず、したがって果位にも影響しません。根本煩悩は解脱の智慧を決定し、涅槃への道を左右するものです。根本煩悩が断たれた後に再び生起するかどうかについては、経典に事例を見出さず、現実にも遭遇したことがないため、特例の可能性を排除できないものの、確定的なことは申し上げられません。

小乗の三果と大乗の三果では状況が異なります。小乗の三果の聖者は衆生を度すことが少なく、通常は出家者であり、事務も少ないかほとんど存在せず、接する衆生も限られ単純です。そのため心を清浄に保ちやすく、禅定も維持しやすく退失しがたく、果位は不退となります。ただし特例は存在するかもしれません。三果の聖者は初禅定を有していますが、常に定中にあるわけではなく、初禅定の中で行動することは困難を伴います。過度に頭脳を使う事柄に遭遇すると頭痛や煩わしさを覚え、坐禅時や特別に保持する時には確かに存在しますが、下座後は一部を保持するか退失する場合があります。例えば夜間の睡眠時には禅定は存在せず、特に思考を巡らせる際には禅定が弱まります。

では禅定が弱まり夜眠る時、果位は保持されるのでしょうか。もちろん保持されます。覚醒時に三果人である者が、睡眠中に一二果や凡夫に戻るとは言えません。したがって一時的に初禅を退失しても、果位は不退です。初果人は未到地定を有し、禅定も退失しやすいものの、初果位は不退です。大乗の七住位菩薩も未到地定を有し退失しやすいですが、位不退であり、凡夫に戻ることはありません。仮の七住菩薩は退転の問題に関与せず、そもそも七住位に入っていないからです。

例えば仏陀は四禅定の中で成仏し、四禅八定と滅受想定を具えられました。しかし仏陀は二禅以上の禅定に常住することはできません。そのような禅定中は覚知がなく、日常生活や衆生救済が不可能だからです。仏陀が日常の行住坐臥で保持できるのは初禅定のみです。四禅八定を具えた俱解脱阿羅漢も二禅以上の禅定に常住できず、行住坐臥で初禅定を保持するか否かは場合によります。しかし禅定中でないからといって、仏陀が仏でなくなるわけではなく、阿羅漢が阿羅漢でなくなるわけでもありません。したがって禅定中でなくとも果位は不変です。たとえ仏陀が初禅定の中で一ヶ月、一年、あるいは一劫にわたって説法し、二禅以上の禅定に入らなくとも、仏陀の果位が永遠に退失することはありません。『円覚経』に「例えるなら金鉱を精錬して真金となれば、再び鉱物に戻ることはない」と説かれるように、仏陀は無明煩悩から解脱したため、仏位は永遠に不退転です。

では長期間にわたり初禅定を退失した場合、三果人の果位は退転するのでしょうか。これは智慧の保持状況と身口意の具体的なあり方によります。根本煩悩が現行するか、菩提心が退失したか、世間の名誉利養に執着しないかによって果位の退転を判定すべきであり、禅定のみで判断すべきではありません。阿羅漢が還俗して四果を退失する場合、それは一時的に軽微な貪欲煩悩が生じた後、再び世俗生活に倦み出家修行して四果を成就するからです。三果四果人は煩悩を断じているため、世俗生活を送ることはできず、仮に還俗しても再び戻ってきます。要約すれば、果位の退転は果徳によって判定すべきであり、三果人の果徳が変化したかどうか、その思想行為が依然として三果人に相応しい徳行を保っているかを検証すべきです。禅定の結果は煩悩を断じ、解脱の智慧を生じさせることにあります。この結果が変わらず退失していなければ、果位は不退です。

大乗菩薩の三果は小乗の三果よりも保持が困難です。菩薩は衆生救済を重んじ、接する衆生が多く、事務も多く、心を用いる箇所も増え、多忙を極めるため、自己修養の時間がなく、禅定を保持することが最も困難で、退失は自然なことです。しかし初地菩薩は行不退の菩薩です。もし菩薩が衆生救済の行を退けず、大菩提心を保持し、大菩薩道を歩み、疲労を知らず、煩悩を生じず、世間の名誉利養を求めず、自我を捨てて仏教事業に専心し、唯識の種智が不退であれば、初地菩薩の果位がどうして退転することがありましょうか。もしこれらの果徳が消失し、貪欲や瞋恚が生じ、名誉利養を追うようになれば、その時こそ果位は退転します。

三果の菩薩は初禅定のみを有し、宿命通を未だ得ていません。命終後に再び人間界に生を受けると、前世の修行をすべて忘れ、初禅定を失い、外見は凡夫と変わりません。しかし意根は前世と同一であり、意根の思想観念・品德・福德・菩提心は前世と同じく今世に継続され、定力と智慧も強力です。その心行は凡夫とは大きく異なり、意識が世間法に染まったとしても、その染汚は限定的で軽微です。意根の清浄性が決定作用を及ぼし、再び仏法に遇えば速やかに覚醒し、これらの染汚を消滅させ、修道の障りとなることはありません。そして再び三果を証得し、初地に入るのです。

したがって三果の果位が退転するか否かは、果徳が存続しているかどうかにかかっており、単一の禅定のみを見るべきではありません。禅定は煩悩を断じ智慧を生じさせる役割を果たします。既にその役割を果たしたなら、禅定が一時的に退失しても重大な問題ではなく、必要時に速やかに修め直せばよいのです。例えるなら、ライターが薪に火を点けた後、ライターの火が消えても問題ないようなものです。

——生如法師の開示
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