仏が説かれた十二因縁法の実質、その各支分は全て如来蔵に依って存在し、如来蔵を離れて因縁法はありません。世間の人々が説く縁起は表面現象のみを知り、あたかも此れ有るが故に彼れ有り、此の法が彼の法を生じるかの如くです。実際には、此の法に縁って如来蔵が彼の法を生じ、而して此の法もまた如来蔵中の法です。如何なる法も如来蔵を離れて存在することはできません。如何なる法の生も如来蔵の生であり、ただ多くの条件を必要として、如来蔵が彼の法を生じるのです。如来蔵を離れて縁起法を説き、此の法が彼の法を生じ得るとするならば、それは全く成立しません。
例えば、無明縁行とは、無明が意根の心行を生じるのではなく、如来蔵が意根の心行を生じるのです。意根に無明があるが故に、法界の実相を知らず、寂静なる真如に安住することを肯んぜず、心を起こして外に貪求する時、如来蔵は意根の無明に随順して意根の心行を生じ、意根の内に躁動が生じ、三界の法及び五陰身心を執取せんと欲し、身口意行を有せんと欲するのです。
行縁識とは、意根のこのような躁動不安と外への求取の心行によって、如来蔵は意根の思心所を満たし、六識を生じて意根が六識を用いて自らの意願を達成し、一切の身口意行を造作することを許すのです。
識縁名色とは、意根の心行が絶え間なく続き、六識の身口意行が継続する故に、如来蔵は自動的に業種を収蔵し、これによって未来世に受生する種子が植えられるのです。命終時に意根の心行が絶えず、五陰身を求取する時、如来蔵は中陰身を出生させます。中陰身の中で、意根は一時的な色身に満足せず、更に来世の五陰身を求め、父母の縁が具足する時、如来蔵は意根に随って胎に投じ、名色が生じるのです。
名色縁六入とは、名色である受精卵が形成された後、如来蔵は意根の五陰身に対する想いに随順し、業種と業縁に基づいて不断に色身を変造し、色身に眼根・耳根・鼻根・舌根を生長させ、身根も不断に増長・完成させ、五根が如来蔵によって創造され、これに意根を加えて六入が具足するのです。
六入縁触とは、六入の縁が具足した後、意根が六塵を見ようと欲する故に、如来蔵は五根を通じて外六塵を五勝義根に伝達し、六根が六塵に接触するのです。この触もまた如来蔵が生じるものです。
触縁受とは、六根が六塵に接触できる時、意根が六塵を了別しようと欲する故に、如来蔵は耳識・鼻識・舌識・身識・意識を出生させ、共同して六塵境を了別させます。これによって六識は六塵に対する覚受を有し、苦・楽・不苦不楽の三種の受が生じ、意根もまたその中に自らの受を有します。これらの受もまた如来蔵が出生させるものです。
受縁愛とは、六識の三種の受がある故に、意根は六識の受に依って自らの受を有し、自ら塵境に接触する時も受を有します。或いは貪愛する楽受、或いは厭棄する苦受、或いは捨受です。これらの受によって、特に意根の貪愛が生じ、如来蔵はこれに依って後続する一切の身口意行を生じ、更に多くの法を生じます。六識の受及び意根の受は全て如来蔵が識種子を出力して生じさせ、六識の愛もまた如来蔵が識種子を出力して生じさせます。特に意根の貪愛は、如来蔵が意根の受に縁って出生させるものです。
愛縁取とは、意根に貪愛がある故に執取性が生じ、三界六塵の万法を占有・執取しようと欲するのです。この執取性もまた如来蔵が識種子を出力して生じさせるもので、如来蔵を離れれば意根は存在せず、ましてや意根の受・愛・執取性などあり得ません。
取縁有とは、意根が三界万法を執取する故に、如来蔵は意根の心行に随順して不断に三界世間の一切法を生じます。有縁生とは、三界世間法が生じた後、五陰身の生存環境が具足する故に、如来蔵が五陰身を出生させるのです。
生縁老死憂悲苦悩とは、五陰身が生滅幻化性を有する故に、出生後、如来蔵が執持し、不断に四大種子を出力して色身を不断に生長させ、次第に老い、最後には死に至ります。この中に無量の生死苦があり、憂悲苦悩は尽きることがありません。これらの生老病死苦もまた如来蔵が縁に依って出生させるもので、その根源は依然として意根の執取性及び意根の貪愛にあり、意根の貪愛を滅除して初めて一切の苦受を滅除できるのです。
以上の十二因縁から見れば、三界世間の一切法は全て意根の貪愛と執取に因り、如来蔵が意根と業種に随順して五陰世間の一切法を生じさせたものであり、生死苦楽は全て如来蔵が出生させるものです。如来蔵を離れて法は存在せず、意根の執取を離れて如来蔵も法を出生させません。従って一切の法の中には常に意根と如来蔵の現行運作があり、一切の法は意根と如来蔵を離れることができないのです。
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