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日常法話

2019年02月14日    木曜日     第4開示 合計1259開示

如来蔵を離れたる無因縁法

仏が説かれた十二因縁法の実質は、その各支分がすべて如来蔵に依って存在し、如来蔵を離れて因縁法はありません。世間の人々が説く縁起は表面的な現象のみを知り、あたかもこれがあるからあれがあり、この法がかの法を生じるかのようです。実際には、この法に縁って、如来蔵があの法を生じるのであり、そしてこの法もまた如来蔵の中の法です。いかなる法も如来蔵を離れては存在できません。いかなる法の生もまた如来蔵による生であり、ただ多くの条件が必要で、如来蔵はそれによってかの法を生じるのです。もし如来蔵を離れて縁起法を説き、この法があの法を生じることができるとするなら、それは全く成立しません。

例えば、無明が行を縁る場合、無明が意根の心行を生じるのではなく、如来蔵が意根の心行を生じるのです。なぜなら意根に無明があり、法界の実相を知らず、寂静なる真如に安住することを肯んぜず、心を起こして外に貪求しようとするので、如来蔵は意根の無明に随順して意根の心行を生じ出し、意根の内に動揺が生じて、三界の法および五陰身心を執取しようとし、身口意の行を持ちたいと望むからです。

行が識を縁るとは、意根のこのような動揺と外を求める心行によって、如来蔵が意根の思心所を満たし、六識を生じて、意根が六識を利用して自らの意志を達成し、あらゆる身口意の行を造作できるようにすることです。

識が名色を縁るとは、意根の心行が絶えず、六識の身口意の行が続くことにより、如来蔵が自動的に業種を蔵し、こうして未来世に受生する種子が蒔かれます。命終の時、意根の心行が絶えず、五陰身を求めるので、如来蔵は中陰身を出生します。中陰身において、意根は一時的な色身に満足せず、さらに次の世の五陰身を求めます。父母の縁が具足した時、如来蔵は意根に随って胎に投じ、名色が生じるのです。

名色が六入を縁るとは、名色である受精卵が形成された後、如来蔵が意根の五陰身に対する想いに随順し、業種と業縁に基づいて絶えず色身を変造し、色身に眼根・耳根・鼻根・舌根を生長させ、身根も絶えず成長・完成され、五根が如来蔵によって創造されます。これに意根を加えて、六入が具足するのです。

六入が触を縁るとは、六入の縁が具足した後、意根が六塵を見ようとするので、如来蔵が五根を通じて外六塵を五勝義根に伝達し、六根が六塵に接触します。この触もまた如来蔵によって生じるものです。

触が受を縁るとは、六根が六塵に触れられる時、意根が六塵を了別しようとすると、如来蔵は耳識・鼻識・舌識・身識・意識を出生して共同で六塵境を了別します(母胎内では、まだ眼識を出生して色を見ることはできません)。こうして六識は六塵に対して覚受を持ち、苦・楽・不苦不楽の三種の受があります。意根もその中で自らの受を持ち、これらの受もまた如来蔵によって出生されるものです。

受が愛を縁るとは、六識の三種の受があるため、意根は六識の受に依って自らの受を持ち、自ら塵境に接触する時も受があります。あるいは貪愛する楽受、あるいは厭棄する苦受、あるいは捨受です。これらの受によって、特に意根の貪愛が生じます。如来蔵はこれに依って、後続のあらゆる身口意の行を生じ、さらに多くの法を生み出します。六識の受および意根の受は、すべて如来蔵が識の種子を出力して生じたものであり、六識の愛も如来蔵が識の種子を出力して生じたものです。特に意根の貪愛は、如来蔵が意根の受に縁って出生させるものです。

愛が取を縁るとは、意根に貪愛があるため、執取性が生じ、三界六塵の万法を占有し執取しようとします。この執取性もまた如来蔵が識の種子を出力して生じたものです。如来蔵を離れれば意根すら存在せず、ましてや意根の受・愛・執取性はありません。

取が有を縁るとは、意根の三界万法に対する執取によって、如来蔵が意根の心行に随順して絶えず三界世間の一切法を生じることです。有が生を縁るとは、三界世間法が生じた後、五陰身の生存環境が具足するため、如来蔵が五陰身を出生することです。

生が老死憂悲苦悩を縁るとは、五陰身は生滅幻化の性質を持つため、出生後、如来蔵が執持し、絶えず四大の種子を出力して色身を絶えず生長させ、次第に老い、最後に死ぬことです。この中には無量の生死の苦があり、憂悲苦悩は尽きることがありません。これらの生老病死の苦もまた、如来蔵が縁に依って出生したものであり、その根源は依然として意根の執取性および意根の貪愛にあります。意根の貪愛を滅除して初めて一切の苦受を滅除できるのです。

以上の十二因縁から見ると、三界世間の一切法はすべて意根の貪愛と執取によって、如来蔵が意根と業種に随順して、五陰世間の一切法を生じたものです。生死苦楽はすべて如来蔵によって出生され、如来蔵を離れては法はなく、意根の執取を離れれば如来蔵も法を出生しません。したがって、一切法の中には常に意根と如来蔵の現行作用があり、一切法は意根と如来蔵を離れることはできません。

——生如法師の開示
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