黄檗禅師はこう説かれています:「法はもとより有るものではないから、無いという見解を抱いてはならない。法はもとより無いものでもないから、有るという見解を抱いてはならない。有るとか無いとかいうのは、すべて情見に過ぎない。」
空性の心には一つの法も存在しないが、それが存在しないと考えることはできない。真如の心は無いわけではなく、確かに存在するので、実相の心と呼ばれる。しかし、それに何らかの相や法があると考えてもいけない。真如が有るとか無いとか、万法が真であるか偽であるかという我々の知見は、すべて意識の心の見方に過ぎない。意識の心はすなわち虚妄の心であり、様々な知見はすべて情見であって、真如の見ではない。真如には見ることもなければ知ることもないが、それでいて真如が知らない法は一つもなく、真如を離れて存在しうる法はない。したがって、知ることは妄覚であり、知らないことは無記である。真如は知るにも属さず、知らないにも属さない。
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