永嘉禅師は言う:「妄想を除かず、真を求めず」。これは真如の観点から述べたものであり、真如には妄想が存在せず、したがって妄想を除く必要もないことを意味する。真如そのものは修行せず、戒定慧を修めず、明心見性を求めず、成仏を望まず、したがって自らを悟ろうとする願いも持たない。永嘉大師は深い智慧を得た悟りの境地にある者であり、真如の本質を直観し、実相の心に関する真理を説く。悟っていない者は、覚知心・意識心の観点から話し、それは全て生滅する法、虚妄の法であり、第一義諦には関わらない。悟りを得た者と得ていない者では、智慧に雲泥の差が生じる。我々の意識である妄心の本質は、仏教を学び修行した後も、常に「どうすれば妄想雑念を取り除けるか」「どうすれば心を清浄にできるか」「どうすれば貪らず瞋らず痴らずにいられるか」「どうすれば真如を悟り自性を見出せるか」と考える。しかし真如はこれらのことを一切考えない。真如は「どう解脱するか」「どう成仏するか」「どう戒律を守るか」「どう禅定と智慧を修めるか」とも思わない。真如はこれらの事柄に関与せず、生死を超越しているため、修行の必要がない。
龐蘊居士の偈:心は境の如く、実もなく虚もなし。有も管わず、無も住まず、賢聖にあらず。悟れる凡夫は易きに易く、この五蘊に真智あり。十方世界は一乗同じく、無相の法身に豈二つあらんや。もし煩悩を捨てて菩提に入らば、何方に仏地あるかを知らず。
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