禅定とは、専注力に他ならず、目の前のなすべきことに集中し、余念なく取り組むことで、はじめて物事を成し遂げられる。まずは自分が行うことに対する高度な責任感と、深い興味を持つことが必要であり、そうしてこそ一心不乱に没頭し、問題を解決できる。集中すればするほど、解決はより良くなり、深遠で重大な道理を発見し、智慧はより深遠となる。
例えば、研究者や科学者は、自らの研究に対して非常に責任感を持ち、大いに好み、深い探求心があるため、倦むことなく日夜研究に没頭し、寝食を忘れ、他のことに気を取られることはなく、ついには一定の成果を挙げ、驚くべき発見をするのである。
心がまだ散乱している者は、昼間の歩行・坐臥において心を堅持して呪文を唱え、あるいは般若心経を暗誦する。空いた時間に坐禅し、心を静めてこそ、後に観行して仏法を思惟できるようになる。坐禅中に仏法を思惟できるようになった後、昼間の歩行・坐臥の中で、再び自分を訓練して簡単な仏法を思惟する。初歩的な訓練として、現在行っていることについて、心ははっきりと認識すべきであり、無記の散乱や攀縁があってはならず、心を目前の行いにとどめることが、粗浅な専注である。
心が比較的散乱している者は、心を摂めるために、最初に定を修めるなら、やはり楞厳咒を唱えることから始めるのが最も良い。毎日三遍または七遍の楞厳咒を唱え、暗誦できる程度に至ることが望ましい。こうして歩行・坐臥において心が常に楞厳咒にあれば、六塵の境界に攀縁することが減り、次第に定を得られるようになる。また楞厳咒を唱えることで、諸仏菩薩や護法神の加護力により、自らの道業の進歩も早まる。心が散乱している者は、坐禅時に、極めて興味深い境界を観想し、その過程を長く持ち、一定の構想を持つことで、心が観想に専注でき、禅定が現れる。禅定が安定した後、これらの観想した境界を捨て、一つの法理を思考するように転換する。もし常に境界を真実と見なせば、偏りが生じやすくなる。
12
+1