衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2019年02月16日    土曜日     第1開示 合計1263開示

専注力を多く培えば禅定を得ることができる

禅定とは要するに一種の集中力であり、今すべきことに精力を集中して取り組み、他の思いを心に抱かないことで、はじめて物事をうまく成し遂げることができます。まず、自分の行っている事に対して高度な責任感を持ち、濃厚な興味を持ってこそ、一つの事に心を集中して打ち込み、問題を解決することができるのです。集中すればするほど、よりよく解決でき、深く重大な事理を発見できるようになり、智慧もより深遠なものとなります。

たとえば科学研究者、研究者、科学者たちは、自分の研究に対して非常に強い責任感を持ち、とても好きで、濃厚な探究心を持っているため、飽くことなく昼夜を分かたず钻研し、寝食を忘れて他に目を向けず、最後には一定の成果を研究し上げ、驚くべき発見をすることができるのです。

心がまだ散乱している人は、昼間の行走坐臥の間、心に念じて呪を誦し、あるいは心経を暗誦します。暇な時間には坐禅し、心を静めることができて、のちに初めて仏法を観行し思惟することができます。坐禅の中で仏法を思惟できるようになった後は、昼間の行走坐臥の中で、さらに自分を訓練して簡単な仏法を思惟します。まず初歩的に自分を訓練し、いま行っている事を、心で明明白白に知っていなければならず、無記 (avyākṛta) 散乱で縁に攀じってはならず、心をいま行っている事の上に住まわせること、これが粗浅な集中です。

心が比較的散乱している人は、心を摂するために、最初に定 (samādhi) の修行を始めるには、やはり楞厳呪を念じることから始めるのが最良で、毎日楞厳呪を三遍あるいは七遍念じ、暗誦できる程度に達すればなお良いでしょう。こうすれば行走坐臥の間も心が常に楞厳呪の上にあり、六塵の境界への攀縁が少なくなり、次第に定を得ることができます。しかも楞厳呪を念じることには、諸仏菩薩と護法神の加持力があり、自分の道業の進歩もいくらか速くなります。心が散乱している人は、坐禅のとき、極めて興味深い境界を観想し、その過程をいくらか長くし、一定の構想を持つことで、心思を観想に集中させることができ、禅那 (dhyāna) が現れます。禅定が安定した後、さらにこれら観想によって現れた境界を捨てて、一つの法理を思考することに転換します。常に境界を真実のものと見なしていると、容易に偏差が出てしまいます。

——生如法師の開示
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静中の定はより智慧を生じやすい

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蟻の身を脱することができないのはなぜか

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